ギフテッド

 

 

ボクは算数しか出来なかった (岩波現代文庫)

ボクは算数しか出来なかった (岩波現代文庫)

 

高木貞治は、小平邦彦にも繋がっていたのか。
数学の天才にも2種類いて、小平は、早くから高等数学に触れたタイプ。
広中平祐「自分は鈍才だが、森君は天才」という』(Wikipedia森重文』)
森重文は、大学数学は大学へ行ってから触れた。

森重文 - Wikipedia

広中平祐 - Wikipedia

小平邦彦 - Wikipedia

マイケル・アティヤ - Wikipedia

アティヤ今87歳らしいけれど。なんと夢のある話だ。




〈「合理的配慮」という言葉をめぐる政治〉
「合理的調整」というと、まったくかぶるわけではないが、重畳的であり、望ましい言葉ではない。「合理化」ということになる。そうなると、主体が問題視されて、政治的配慮を欠いた言葉になる。
逆に、「合理的配慮」の主体は、権力側、権限側、教師側、「(配慮を)する」側になって、ともすれば「恩や恵みを、一方的に受ける」印象を抱いて、拒絶するのだろうと推察する。

例えば、社会教育/生涯学習、と言うときにも似たようなことはあって、文科省の取り扱いではこの二つの言葉に差はないのだけれど、実は歴史的経緯から、区別する人たちもいて、啓蒙のための経路戦略上の違いがあって、社会教育と言うときには、あくまでターゲットは一体とした社会で、リーダーを経由して個人を十把一からげにした社会を統括する割拠主義で、生涯学習は、個々人と直接つながって、個人の主体性を信頼して、それに直接働きかける、バラバラで自由な主体が活発に活動を始めるための、きっかけとしての情報提供型になってゆく。個々の人格を、受動的ととらえるか、能動的ととらえるか、の若干の違いもある。展開が、順次的、下達的か、同時的、水平的かの違いや、説得を受け入れる動機を重視するか、(説得が抑圧にならないことを重視し)情報に触れる機会に着目するか、といった違いも出てくる。端的に、社会主義/個人主義、と言うこともできる。

2E児/ギフテッドという言葉にも、政治性があるとしたら、私は「2E児」を選ぶ。

「反転教育」が、同級生のメンター化を促すとしたら興味深いが、「反転教育」でなくても、メンター制ががメンターとなる児童にも、よい教育効果が表れるのであれば、取り入れたいところである。ギフテッドと呼ばれる子たちがメンターになれるかというと、中には難しい子たちもいるだろう。(途中)


ギフテッド教育を真剣に検討しなければならない時期が来ていると思うが、「到達度試験」と「ゆとり教育」で経験した知見(「ゆとり教育」は偏見にさらされ、あまりに誤解されているが、現場裁量を認め、指導要綱にとらわれず、より高度な理解を必要とする学習への道を"公式に"開いている、という意味で画期的であったのだがー小平のような数学者にも理解されなかったのは残念であるー、マス教育の限界があったのである。)とあるいは選択制を使って、特に教材の与えかたをどうするかー単位校の枠をどう飛び越えて教材を与えるか、同時並行的な授業をどうシンクロさせて構成してゆくか、を考えてゆかなければならないだろう。そういうときに、  さんのフィンランドでも経験が必要になってくるのではなかろうか、と思っていて、そういった学校をネット上に構築して、ネット上の特殊な学校から単位を互換的に受けられるような、複数の学校に同時に所属するような、制度の整備も必要になるのではないかと、いまのところ思っている。そのとき、場合によっては、放送大学を拡充して活用することもあってよいのではないか(ちなみに、放送大学には選科制度がある)、と思うー放送大学中等部、高等部といった具合に、ただし年齢不問で。このとき、放送大学以外で「認可校」を求めるべきかということになったら、費用の問題が出てくるだろう。

やはり、国立の、大学附属の小中学校で、小中高大を一体として、上部校の授業、講義への聴講生制度を整えるなど、先進的に取り組み、知見を蓄えてゆくべきだろうと思う。

 

jukuyobiko.blogspot.jp