読解力と語彙(メモ)


「ふらふら歩く」は「ふらふら」+「歩く」
「ぶらぶら歩く」は「ぶらぶら」+「歩く」
ですから、「ふらふら」と「ぶらぶら」の対比構造(共通する基礎概念に依拠して派生する、選択(否定)的に意味が分岐するときの派生概念があるとき、その派生概念を生み出す仕組み)を見出せるかを見ているのでしょう。

お答えしましょう。
「ぶらぶら」は、半開区間で、
「ふらふら」は、開区間です。
「ぶ」は「ふ」の右(上)に「=」を付しているでしょ(笑)
そして、「ぷらぷら」は、離散集合内のアプローチです※。

半ば冗談ですが、要はどちらの語も動きを外観から表現する語で、例えば(いずれも)"振ら振ら"と当てることができるでしょうか、揺れ動くさまのことですが、濁点を補助的に使うことで、つまり、「ふ(っ)」と「ぶ(っ)」と発声した時の強度で補助的な説明を行っているのですから、その強度がその説明の対象である動きの何によって保証されているかに着目することになるでしょう。すなわち、動きの「支点」についてです(なお、その文脈において類推される意味のことで、力学の説明ではありません)。そして、「歩く」ということに関して、何が「支点」となっているかの説明が問われています。要は、「ふらふら」は、覚束ない(「覚え」の「束」が無い)さまで、「ぶらぶら」は、だらしない(だらしない - 語源由来辞典「しだら」が無い)さまです。(途中。無目的であることと、「歩く」の指示内容と、修飾することの意味

区間 (数学) - Wikipedia

孤立点 - Wikipedia(離散集合)

束 (数学) - Wikipedia

 

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「ぷ」は、半濁音の『その他』『日常語を中心に一定数存在する。 これらの大部分は、くだけた場面でのみ使われる俗語的な語彙である。「っ」または「ん」の後に現れるのが基本。』(半濁音 - Wikipedia)で説明される通りで、「ぶっ」が  のように(だらしないの語源より)、本来は軽薄さを揶揄する意味が込められて発語されていたかもしれないが、必ずしも明確ではなく、またむしろ現代においては、余裕が一つの価値としてあるために、必ずしも否定体な意味合いは強くなく、様々な文脈に応じると思われる。
※「ぷ」の半濁音持つ突(破)的なニュアンスもあって、軽佻浮薄な感じを受けることから、(あちらと思えばこちらに)無定見に飛んで歩くイメージである。


「それぞれ」についてですが、「それ」と「それ」のことであるのか、「みんな」のことであるのか、の区別がついたうえで、抽象的にとらえられているか、或いは、テキストそれ自体を(図解から離れて)条件授受的に読めているか、が問われています。

これは説明すると長くなる。
理解度判定型の問題ではなく、行為準則型の問題で、意図が隠されている問題であり、ある教育目的※に到達する過程を示す「設計図」の一部を見せられているだけで、それだけでは意味がわからない問題だから、混乱しているのだと思います。キーは「変化を見る」です。
※教育目的はおそらく体積の理解で、それは「空間に占める割合(一次独立に与えられる要素の大きさの比)」のことですが、我々はよく「たて×よこ×高さ」と習います。敢えて迂回して理解しようとしているのだと思います。

あくまで経験させるのが目的で、このような問題を出して〇×をつけるのは、教育の効果があるのか疑問ですから、あくまで"その"説明を続けるためのチェックポイント(でチェックを受けている)に過ぎないと思ったほうがよく、過度に気にすることはないと思います。つまり、これは(それ自体で完結する)算数の問題ではなく、算数教育上の問題です。ここにあるのは、算数(教育)道です。
(ただし、だから「まったくくだらない」と言ってしまうと、算数の授業を構成することが難しくなると思います。どうしても教育は、現在進行中の過程を捉えなければならないからで、既知の要素を使って未知を探ってゆく、という「鵺的なこと」にならざるを得ませんし、認知能力の発達途上の児童を相手にするのですからなおさらです)

 
心配することはありません。これは『モンティ・パイソン問題』で、天才数学者ポール・エルデシュの犯した誤りと同じで、我々はつい、(テキストを離れて、脳内に没入してしまい、そこにある)必要のない全体を見てしまうだけのことです。私も、同じように全部足して、間違えました。

 解の公式を最初に覚えるべきか、因数分解から入るべきか。


ZFというと、ツェルメロフレンケルであるが(公理的集合論 - Wikipedia)。
WCとして、Wittgensteinヴィトゲンシュタインの言うゲーム性とTuring(チューリング)の明らかにした二重性と遂行性(サブジェクト/オブジェクト問題)を、「『算数の問題』問題」についても(問題文のテキスト(サブジェクト)の完結性とそれを具体視した図解(オブジェクト)の対象性の二重性)、より具体的に考えてゆきたい(リンクはそれぞれWikipedia)。
これは現在憲法問題としてあって、大陸法から英米法への革命的転換が、規範と都度生起する具体的事実を処理する(科学的)合理性について、恒常性の取り扱いを巡るシステム上の対立を喚起して、憲法とその第9条の関係に(大陸法的な理解のもとでの「法律の留保」の問題"化"を思い出させつつ)陰を落としているし、そのような憲法観の違いを考えるにつけ、ノーベル文学賞の授賞が、rolling stoneとキッチュに現れる、ヨーロッパとアメリカの(あるいは、カトリックプロテスタントの違い以来の)文化的な違いを浮き彫りにしていることにも興味を惹かれる。
二重性が日本の特殊な文化的措置でないことの理解は必要である。今の日本に必要なのは、マルクスではなく、実は明晰な「神学論争」の論理である(抽象的に議論しつくせないから、素朴な具体性に依拠することが正しいと誤解してしまい、本当に必要とされるべき具体性がおざなりになる)。
日本の近代は、大陸法英米法ー日本法(歴史を通じて培われ、高められた規範意識)の「3値」を取り扱わなければならない。


ゲーデルによる「神の存在証明」

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