「疎外」と

マルクスはだいぶ誤解を受けていて、彼のオリジナリティーは(その間違いを除いて)ほぼなかった思っていて、哲学が表現の違いに過ぎないとすれば、そのようなものだったろうと思う。

疎外と謂うのは、例えば。
有限は無限から疎外されていてなおだからこそ、関係を方法的に表現して、再帰的に普遍的な有限値を取り出すことができる、つまり、数を考えた時に、そもそも数と数との関係から数が定義されざるを得ない、関係の普遍の下位概念として無限を、"その"数が実際に操作できるのであるから同様に、操作できるのであって、例えば別に独立に定義される或る数があったときに、定義次第でその普遍の定義が覆されるなら、操作できない、という、あえて言うなら、定義からの2重の疎外を持つ。

εδ/ガウス平面/集合/超関数

物自体を考えた時に、我々は物を改変可能な操作(手続き)の下においたとき、改変不能な《物自体》からは疎外されていたが、改変が支配の下位概念であるがゆえに、支配の下位概念である適当な所有を考えれば、その所有との関係から改変を《物自体》の疎外から手続き的に操作可能な状態においていたのである。然るに、”その”所有が奪われてしまうと、《物自体》の疎外がそのような手続きで操作不可能になる、と云ったのである。

要は、プラトン、カントであり、存在論と世界論にことよせるなら、アンセルムスなどの中世の神学者である。
最大の問題が、εδを考えた数学者たちは、マルクスの影響を受けていないことである。物(自体)などの存在を問題にするからいかにも実証的であるが、《自体》と言っている時点で規範的なのであり、数学とは実は規範学に過ぎないのであるから、マルクスが数学的というのは、アンセルムスが数学的と云うのと変わらず、彼の社会分析が実証的でないことだけが問題なのである。

ヨーロッパ人がマルクスに熱狂したのは、彼らの文化伝統に根ざしてはみ出していなかったからであり、日本人がマルクスに嵌ったのは、夏目漱石以来煩悶としていた、しかし実際の生活上はすでに恩恵を受けていた近代を、煩悶とする理由であったキリスト教の世界観に直接には触れず迂回してその理解を手に入れたからであり、南米の人が渇望したのは、実際の貧困を覆すリクツであり、科学的に正しいことには無関心だったからである。日本のリベラルがそれに固執するのは、同じくらいほとんど誤りを含んでいるであろう最先端の宇宙物理学よりも(数多くの宇宙論のすべてが正しいことはないだろう!)、あまりに単純だからであり、しかし嘘をつくには政治的にもってこいだからである。