ハムレットが「論理的ではない」という指摘は、誤りを含んでいます。
そこにあるのは、プロセス・ミスではないからです。
そこにあるのは、(そう指摘する人、或いは、相互の)カテゴリー・ミスなのです。
別々のカテゴリーでそれぞれに妥当なプロセスを踏んで噛み合っていないだけなんです。
問題は、カテゴリーを対象として明示化できていないことなんです。
そして、あるカテゴリーをその限りで主たるカテゴリーと認めるときに、別のカテゴリーは従たることとして内部化され、意味が与えられることを、受け入れることなのです。

 

markovproperty.hatenadiary.com

 
我々は現に近代"社会"を採用し、その恩恵を十分に受けているではないですか。

天皇制と日本国憲法にも同じことが言えるのであって。
天皇制は、近代制度の一つなのです。
したがって、歴史に依る必要は、原理的にはありません。一次的には、名辞の問題であって、社会がどうのようにしても(種としての人間の個別の認識能力の限界からしかし必要であり、本能的にドライブされて)シンボルを求めるときに、シンボルの定義上、名辞を必要とするだけであり、このとき「シンボルを求める」ことの意味以上をシンボルに求めないために、それを「φ(空)」とするのが一つの考え方なのですが、そうすると、ドライブされて在る、シンボルへの渇望を十分に満たさないために、二次的に、方法的に《プロパガンダ》されるだけなのです。方法的に《プロパガンダ》されるとは、非難感情は関係なく、適当に取り出される一部の事実で十分である、ということで、何を名とするかや或いそれ以外の歴史が該当します(象徴大統領を選挙で選ぶ方法もあり、実際にそれを採用しているヨーロッパの国もありますが、それが唯一正しいかどうかは、自明ではありません。これが、中身を求められない空虚な、しかし外見を求める程度には必要とされる、本能的にプログラムされるほど必須であり、馬鹿にすることこそが軽薄な、シンボルの問題だからです。「(大統領、或いは、選挙)でなければならない」というときにすでに、対象として意味が過剰に求められている虞があり、これはあくまで、意味の過剰(無限)を(そうとは直接名指しせずに)外延的に語る機能を持つ、「否定論法」で語られるのが穏当なのです。否定を用いて処理することが論理の一つの本質で、そうして直ちに何かが言及されるとは、限らないのです)。
ですから、明治期における天皇制の採用がそれまでの歴史に比べ云々、ということ自体が、ひとつの《プロパガンダ》であって、信じる対象としていること、或いはそれを客体視して(括弧に入れた)「信じる」ことについて述べること以外の意味はないのではないでしょうか。
ここでも、カテゴリーが隠されるなら、「信じる」ことについて述べるときに、どう述べるのが望ましいか、と謂う疑問に応えなければならないでしょう。すなわち、『明治期における天皇制の採用がそれまでの歴史に比べ云々』と指摘することがすなわちそれに該当する、とは必ずしも受け入れられない、ということです。
つまり、天皇制を論じることも、日本国憲法を論じるときと同じで、可能のクラスの論理で論じる、ということです。