金子みすゞファシズム



最近、「伝統」と言われる事実の歴史性が問題視されることがある。本当にそれが「伝統」と言えるほどの、経験のスパンを持っているのか。それ以前に、その「事実」と言われることは、歴史に照らして正しい事実と言えるのか、ということである。
よく言われる「伝統」も実は、明治期以降に培われた事実、と云うことで、その事実の流布の根底にあるのは近代的国家主義と言えるというのは確かにそうだが、そう指摘する人の、反証として指し示しているその内容が、指示の対象範囲は近代以前に持ちつつ、選びだされ、歴史的事実として構成されると、近代的な事実構成の枠組みに沿った事実であり、近代的国家ゆえに見られるはずの事実で、比較になっていないのだから、いかにこの「伝統」が実に伝統らしく根深く、認識の枠組みを支配しているか、わかるのである。

こうなると、八幡さんの歴史が面白く、
(本紹介)
特に気に入ったのが、言葉はそれぞれである、という箇所で、そもそも言葉が通じたのか、いや通じなかったのではないか、と伺わせて面白いのである。近代国家に「相応しい国語」、すわなち、すべての社会階層を、近代社会の規範たる「平等」に  して、国家権力を以て、そのようにして構成される国民を、強制的に貫く「国語」は、まだ登場していないのである。それ以前に、そのような統一国家の国家観もまた、ないのである※。

※話は変わるが、それを考えると、信長の目指したものが、近畿一体の領域支配に過ぎなかった、というのは、ごく自然な話であり、納得がゆくのである。近代主義とは時間的に「予測可能」、空間的に「計測可能」を指向し、度量衡と所有権ともにあり、それがゆえに近代国家は明確な線引きができる国家観を持つ。近代法と古典物理(数学)が、近代国家に枢要な要素である

さて、この国には、保守リベラル双方の近代国家主義者、言論空間のメインプレイヤーで、リベラルの近代国家主義者性を示すことに「いわさきちひろ信仰」とでも呼べるようなことがある。近代国家主義とは、つまりは、いわゆる社会主義か、それに先立ち、しかし  を備えている、幼生の社会主義とでも呼べるような思惟であるので、本人の自覚はともかく、リベラルが近代国家主義者であっても不思議ではないのだが、この「いわさきちひろ信仰」については、いかに「主義」と成りえた無自覚な認識の枠組みを形成しているのか、を示しているようで興味深いのである。

金子みすゞ - Wikipedia


金子みすゞさんは、素晴らしいと思う。気づけないことに気づかせてくれるものがアートならば、金子さんの詩は正しくアートである。
でも、それは社会提言であってはならない。たちまち、下品になる。
それはそれぞれが感じることである。また、何かしらの提言はそれ自体の合理性を持つべきである。そうでなければ、ロジカルに、たちまち権力的になる。
本来それを必要としていたものをこそ、抑圧するようになるだろう。
ボブ・ディランは、反体制の旗幟ではないし、金子みすゞは、社会運動家や政治家ではないのである。
我々は金子みすゞを政治的に利用すべきではない。詩人として大切に心のうちに留めておくべきである。