否定的様相と構造主義                ートートロジー、為(ため)にする議論、言及の無効な命題

トートロジーが無駄かというと、そうでもない。

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

トートロジーの意味を構築する ―「意味」のない日常言語の意味論

 

 エマに関して、フェミニズムとは何か、を考えると、「フェミニズム」とは為にする議論であって、無駄ではないが、反射的な言辞に過ぎないため本源的な制約を持ち、それを無視すると、抑圧をもたらす、と言える。

言及の無効な命題とは、それを指示して論じる主題にとってそれを取り扱うことが矛盾となる命題である。例えば、「愛は金で買えるか」など。


これらはすべて構造に関することであって、対象を直接指示することが無効な時に、否定的に(否定論理を以て)、構造に関して述べる仕方であって、それを無視すると、抑圧だけがもたらされる言及の仕方である。
そう言えば、リベラルと保守に関する、互いに揶揄するが構造的にそれに気づかない、面白いツイートもあった。

例えば、金子みすゞに関して言及するのもそうで、情報量を比較すればわかりやすい。
アートの持つ情報量(の環)があって、その内に、それより小さい、文明批評の情報量(の環)があって、さらにその内に、さらにそれより小さい社会提言の情報量(の環)を見出すことができる。しかし、これもトートロジー、名付けるなら「作為のトートロジー」であって、多義的な情報を(見ている本人のうちに)「そのようにして見るから、そのように返す」構造を持って見ているだけでなのであるから、上掲の一般的なトートロジーと同じ意味をもたらすことである。
アートはアートとして受け取り、多義的であるがゆえに、それぞれが感じればよいのだと思う。

何が言いたいか。
最近の一連の騒ぎの思想性については、戦前、近衛の云った通りであるが、それは近衛自身が言及できなかった通り、構造に関することで、言辞の切れ端を取り上げて「違う、違う」と騒いでみても、根っこが同じなのであるから、批判的ではないのである。批判とは、定義の通り、前提に関することだからである。
朱子学皇道派国家社会主義を信奉する団体が仮に今現れたとして、それを批判するなら、どういう言辞が有効であるか。自己の認識の共通性、すなわち、近代主義であるがゆえに一種の社会主義であり、国家主義であり、社会的抑圧を胚胎する主義であることの自覚なしでは、否定的に、その抑圧のみが現れるのである。

 


こういうことに出会ったら、ただ慨嘆するほかないか、というとどうもそうではないらしい。
一つの例が、教育である。
マス教育が全人格的な評価を下すのは、円環的な構造を持つからであり、それぞれの個別の能力の比較を放棄し、全体にリンクを張って「閉じる」ことでもたらされる内部(抑制)効果を活用し、全人格的な評価をその環の大きさの比較を以てすることで、能力の比較を可能にしていたのである。大きな環を持つ子が優秀な子、小さな環を持つ子がそうではない子、その中間に普通の子がいる、といった具合である。国立大学の学生が私立大学の学生よりも優秀だとみなされるのは、受験科目の充足によって、これに基づき、評価がより正当と見なされるからである。実際にそうであるか、ではなく、作為的な社会評価である。
しかし、これが社会の理想を達成できていないことが、明らかになった。
これも一種の為にする議論だったのであり、シグナル効果という、「フェミニズム」と同じ様に、社会の在り様を前提として一種の社会への警告をもたらすのみだったのであるが、だから有効だったのであり、まただから、これからも、有効性をもたらす可能性がある。円環構造を社会に見出すことが可能であるならば、それは可能なのである。アローの不可能性定理が、そのまま、円環に関する論理であったではないか。我々が信じていた「外部性」が実は、単なる条件付けに過ぎなかったのかもしれず、状況によっては、それをそのまま社会から直接、取り出せるかもしれないのである。

つまり、円環構造は、代替できる。

そこに社会の可能性を見るのである。