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だからね。
基礎教育(義務教育)は、市民教育として、理性を発揮できる「個人」とそれを単位とする共同社会の再構成の行程化を目指して、感情教育と論理(学)を中心とした技術教育に収れんされるべきで、「場所」の必要性は(そう言えば、かつて、ハーバードとMITの議論があったが。)そこから考えられるべき。

大学の教養課程の(の基礎を為す教育)は、ここに求められるべきで、教養課程は必要としても、それが大学に求められるべきかは、再考されるべき(アメリカでは哲学を中学校でやるのではなかったかー日本は道徳に成る。道徳が不要とは言わないが、もはや近代国家の建国時の、統一国家に慣れていない時期ではないので、今では往々にして過剰になるきらいがあるーどころか、その時期に逆戻りしたがる、という奇妙な傾向がある。それはウヨと呼ばれる人たちに限らず、ノンポリを自称する人たちの、例えば、シンガポール教育など。それは、(先進的な面もあるが)或る意味での「後進国」だから、できるのであって)。

そう考えると、むしろ大学(を含め、学校)の問題は、技術的な可能性を広げる、場所ではなく、資産の問題だと気付く。

社会的な理想は、市民教育の基礎教育課程としての義務教育と、その後の専門課程における、各教科の資格化のために、社会経済学と統計学結び付け(社会評価に関する円環構造の再構成)、活用する一方での、ITCの網羅で、場所は資産に物理制約としての社会的意味は解消されるので、ダブルスクールは当たり前、とする社会。

実は、2~30年前からの課題である(あり続けている)のであるが、個人にどう社会の照準を併せるか、という技術問題に過ぎなかったりする。

 

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 それはKaishaにも言えるかもしれない。つまり、Tenkinとテンプル騎士団フリーメーソンのロッジね。資産運用は抽象化された。あとは、KaishaとGakkoなんだよ。
何か利点があるんだろうね、という話
ちなみに、中間団体の問題は、政治学の中心問題のひとつだったりする。高校生は大学に行って何を学ぶかをイメージしたらいいんじゃないかな。