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これって、実はすごく根深くて。
たまたま、いま憲法についても考えているけれども。
法学をすこしかじれば、日本国憲法英米型なのは、すぐにわかるけれども。
そう単純な話でもなく、ヴァイマールの、つまりは大陸の影響を語る人もいる。
命題事実としてそうであっても、なお「英米型」と断言してよい(と私が思っている)のは、事実操作の方法なんでね。幾何か解析か、と言われれば、解析と答えるようなことであって、対象とされる事実とは区別されることなんだね。

英米型(法実証主義)/大陸(プロシア)型(法実証主義
法体論(field  theory※ー根本規範性)/法名分論(根本規
正義論(エビデンス)/  ()
法神秘論(ニュートン的)/法機械論(デカルト的)
尚、具体的妥当性と法的安定性は、それ自体では対立概念ではない。


より科学的なのは、いずれか。

ただし、アメリカと異なるのは、日本国憲法で重視されたのは、「法の支配」の確立で、(アメリカと比較して、当時の司法への信頼が薄く)それを立法を通じてなされようとしたこと。プラグマティックなのは同じなのだが表現方法が違う。

全能の逆説 - Wikipedia
これは、なぜ、シンボルが必要かと理性とは何か、ともかかわっているけれど。
オイラーが完全に理性的な存在にもっとも近いとするなら、彼自身は特に、シンボルを操作を行わずとも「わかる」ことができたのであって、シンボル操作はオイラーのように完全に理性的ではない自分のような人間に必要ということである。
ここから、全能まで拡張すると、全能者を言葉で定義するのは、言葉の意味を制限することで無制限を定義することになるので、そもそも矛盾であって、ならば、全能者とは一つの可能性として「定義されない者」となるが、これは「一つの可能性」というれネルにまで落とした解釈で、そこから考えると、そのような内容も含んでなお、それ以上の者であり、要は、無限退行を起こす、ということである。
観察者のレベルで言うなら、存在定義として、∞→∞(同位律A→Aの拡張)、であるが、これは可能な定義であるから、それを含んで不可能な定義も存在するはずである。
つまり、「逆説が起こる」ということが、前提に根差して矛盾なのであるが、人間は可能な限りでしか理解できないのであるから、そうとしか言いようのないことである。
簡便な理解としては、全能者という定義が矛盾なのであるから、それを許容して猶,矛盾な存在である、つまり、無制限ということになるが、無制限ということが、そもそも言葉で表すことができない(言葉で表した途端、制限していることになるから)ので矛盾であるが、それをも許容するのである。だから我々は、それをひっくり返して、可能なレベルで考えるのであって、それがシンボル操作である。
無限退行を前提として、それを止揚できる可能性を探るのである。
これは外部規範に依らざると得ず、科学が発展したのは、それを割り切ったからであると思う。つまり、可能なレベルの議論とは、外部規範の問題である。

シンボル操作ができる者が「賢い」とされているが、それは誤りで、限定的な理解力しか持てないから、その能力に見合って、制限を駆使することで理解しているだけなのであるから。本当に賢かったら、自ずとわかりなお、それを説明できる、オイラーノイマンのようなことになるのであるから。シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンの場合、「わかる」けれども説明の苦手な人であって、「わかる」ことにかけてはラマヌジャンほどではなかったけれど、説明することにかけては当代随一のハーディを必要としたんだね。