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メモ マッチング37

 

markovproperty.hatenadiary.com

 

お願いします。三平方の定理が成り立つ3つの整数の組を教えて下さい。(相似な... - Yahoo!知恵袋


なるほど。そうだったのか。
a、b、cは、奇数、偶数、奇数の組み合わせで、

(a,b,c)=(2m+1,2m(m+1),2m(m+1)+1)

パッと見た限りでは、(見落とし或いは早とちりがなければ、)他の場合を考えても、これに帰着するか、背理になるかの、いずれかのように思う。
こんなことすら知らなかった。


今年は、少しづつ、新課程のことも見てゆけるかな。
👇まだいっさい読んでいないけれど、落ち着いたら「答え合わせ」をしてゆければよいと思う。でも、無理かなぁ。
自分のやっていることは、どれくらいオリジナリティがあるのだろう?気になるが、がっかりしたくはないので(大抵がっかりする。)、見たいような見たくはないような。

数学の研究をはじめよう(I) (高校生にもできる新しい数学研究へのいざない)

数学の研究をはじめよう(I) (高校生にもできる新しい数学研究へのいざない)

 
数学の研究をはじめよう(II) 高校生もわかる新しい数論研究への誘い

数学の研究をはじめよう(II) 高校生もわかる新しい数論研究への誘い

 

 いつの間にかⅢもでているじゃないか。

👇もはや、こういった理解が求められるんだねぇ。

総合的研究 論理学で学ぶ数学――思考ツールとしてのロジック

総合的研究 論理学で学ぶ数学――思考ツールとしてのロジック

 

推薦入試に対する誤解が蔓延しているが、要は、端的にこういった、論理能力を見られれば学習に対する汎用能力が高いということであって※。形式性(抽象性)↔具体性を自由に行き来できる、つまりは、自己の目の前の問題の論理的構造を見抜いたうえで、或いは、仮定として提示したうえで、あらためて具体性を付与したり、仮定を排除したりすればよいのであって、大学受験がもはやそういう方向に舵を切っているならば、大学を頂点とする日本の学制を考えると、小中学校から形式論理を学ぶ意欲が沸く、具体的に言うと、それと「学び」の一貫性を持たせるように※、或いは端的に(大学受験の勉強を)「前倒し」して、授業が構成されたり、それどころか、中学受験で「そういった問題」が出題されてゆくようになる(から塾で、形式論理を教えるようになる)ふうに、ドミノ倒しが起きるだろうか、といったところである。

※北大入試の英語の試験に出た論述問題も、実は、(英語だけではなく、授業で習う、或いは、教科書に出てくる知識について)「日本史」をちゃんと勉強していれば、迷わなかったのではないか、ということ。

※「学び」の一貫性(小中高のそれぞれの一貫性並びに小中接続、中高接続、高大接続)は、先日の、「聖徳太子排除事件」でも言及されていたが、けっこう学校現場では気にされているようで、これはあまり気にしすぎると、「(宇宙物理学関連)質点を巡る某高校入試問題事件」になる。《(非器質的)知識の積み上げと理解力の(向上)関数》×《(器質的)認知能力の成長関数》を考えないと誤解を生む。だから、本当は、途中で「変える」ことも「有り」としといた方がよいのだけれど。。。理解力がジャンプする局面もあるから。それを「無し」とするのは、個人の問題から引き離して、本当は社会の都合(或る個人に、過度にフォーカスを当てる、社会の都合)であって、本当はこれは「接続問題」で、「接続問題」は制度に帰着して考えられがちだが、理解の飛躍に関してであって、制度がそれに沿っていることが多いというのに過ぎないんだな(高校に入学したら、広域の友達ができることも大切だが、広域の認識野を手に入れることも大切で、それが、今までの知識がそこで再定義される、ということなら(すなわち、同じ知識の理解を保ち続けることではないため、端的に言って、同じ語彙を保ち続けることではない。このような専門性の高度化と会話の成立について考えると、社会の成立と信頼の醸成について、いろいろと思いをいたすこととなる。)、それに対する「学び」の構えについて考えると、当然にそれを受け入れる準備をしなければならないんだよ。それが「接続問題」だろうと思う。そのときに、汎用的な、形式論理が役に立てばよいと思う。だから、小学校、中学校で形式論理の基礎をやるのに、賛成する。プログラム教育の目的は、形式論理の基礎の習得であるべきだと思う)。

北大入試に見られる「金の卵」と社内共同体の形成(それを一方で掉さす、企業内福祉と戦後のリベラル政策)といった知識の活用を、教科の、横の接続とし、一方、某県立高校の入試に見られる(物理学上の)「質点」の知識の未活用を(したがって、それが「正しい」理解なら、高校以降にそれを習うことを)、制度(中高)の、縦の接続とするなら、これを円滑に受け入れる能力の涵養として、形式論理の習熟以外に在り得るだろうか。形式論理は、かつての哲学の位置を占めている。そして、法学に代表される「文系」の学問に、いまこそ、その能力が求められている。