学校の行く末

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☟特色
通信制高校「広域・単位制」アットマーク国際高等学校
☟進学実績
通信制高校「広域・単位制」アットマーク国際高等学校


学校は、不動産を中心として、資金調達を云々しているのに過ぎないから、不動産自身がすでにそうであるように、それが債権化して取引コストが劇的に下がり、流動化したらどうなるってね。或いは、学校の勉強なんて、ただのキャリアパス、社会的な資格でしょって。統計技術を通じて、ノイズを整序化できれば、十分なはずで。所詮、学校は、情報技術に従属しているのに過ぎない。社会自体がそうであるように。
そう考えると、神奈川県の内申書の問題なんて、正味の話として狂ってるよね。少なくとも、マッチングの問題として、狂っている。もうこんな、不動産中心の学校なんて。本当止めれば?
かつて戸籍が、資本主義と人権の中心であった「移動の自由」によって、崩壊したように。反近代的なレベルだろうと思う。


 これすごいね。

中学受験国語 「気持ち」を読み解く読解レッスン帖 (Yell books)

中学受験国語 「気持ち」を読み解く読解レッスン帖 (Yell books)

 

 アマゾンレビューがまた、良くって。👇塾講師25年のこの方
『さまざまなシチュエーションから、どういう気持ちになるのかを解説しています。大人からすると当たり前のことでも、子どもにとっては当たり前ではない。そういう意味では、物語文で気持ちが読めないお子さんにとっては、大変参考になる本だと思います。サピックス偏差値50以下、四谷大塚日能研偏差値55以下のお子さんにお薦めです。特にP182~の「行動から気持ちを考える」というところは秀逸です。』
(ストイックな国語参考書,投稿者アマゾンライダー 投稿日 2016/6/5)
ちなみに、赤字強調は、私。
馬鹿にしているのではなくって、塾って、やっぱり有用だなって。

実は、国語が「道徳」だったというね※。まぁ、近代小説は、聖書のデッドコピーだから。どんだけ、「気持ち」なんて作者にもわからない、と言おうが、それが近代社会の求める「道徳」の訓練であるかぎり、国語科はなくならない。
「行動から気持ちを考える」って、法学における行為論(の歴史ー戦前の小野理論から戦後の行為無価値を得て、現在の、全体としては結果無価値との  で、アプローチに過ぎなくなった行為価値評価)を考え得ると、ドキッとするよね。民法にも意思表示は中心にあって、外形からの判断って、いまでも有効だからね。

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

批評理論入門―『フランケンシュタイン』解剖講義 (中公新書)

 

 ※陸士、海兵の入試の国語を見りゃ、一目瞭然だけれど(笑)

何度も言うけれど。
学校って社会の一部で、社会の再構成を企図する機関であって、その際、再帰的に定義されるゆえの循環構造を内部化して、遂行的ーすわわち、否定される機序を内部に取り込み、現行肯定的、すなわち、否定されるまでは、肯定される「公定力」を持つーで、その際、まるで最初からそうであるようにして(再帰を忘却して)装う、「存在の自明性」を、一般的に、成員に付与し、全人格的に評価する。
これが、学校、なわけだ。
道徳が、最初期乃至前期近代社会に必要とされるのは、人格の分布を小さくするためで、今ふたたびされが求められているのは、一種のフォビアの表れで、分布が大きくなり過ぎ、許容できる範囲を超えたと感じられているからなんだな。でもそれは、ハンバーガーにミミズが入っているとして広まるデマと本質的には変わらないんだ。システムの抽象性と関係構造性(非存在規定性)と個別の操作不可能性は、ときに人間の生得的な感覚を超えているってだけで。要は、人間って基本的に、実際に数えられ、覚えておける限界「1,2,3、たくさん」の感覚の中で生きていて、それ以上は「手に余る」から。だから、マルクスは「柳の下の幽霊」を声高に叫ぶし、ハルキはシステムがどうたら、と言い出すしね。それから多大な恩恵を受けているにも関わらず。

情報のフィールドの大きさで比較すると、

 嘘<道徳<倫理<論理

だろうと思う。近代社会が嘘を嫌うのは、情報のフィールドが小さくなりすぎだからで、しかし、最初期乃至前期近代では、道徳あたりから始めるのが、どうもちょうどよいらしい。

だから、子どもが道徳を習うって、必ずしも悪いことじゃない。所詮。子どもだから。まずは、簡単なことから始めましょうってことで。
サヨがそれに反対するのは宗教の狭義な理由のほかに、宗教の原理的な理由、大人と子供の存在の一義性の過大評価、簡単に言うと、大人も子供も同じだと(科学的には間違って)考えるからで、ウヨが賛成するのは、実際に一部でサヨの勘違いがあたっているからだからだったりする(大人の世界もその程度の情報フィールドでいて欲しい、という)。
僕が倫理を勧めるのは、論理の一里塚だからで、倫理は論理の母だからね。
アプローチの問題だね。機械的に、コンピュータ(プログラム)学習も勿論あってよいけれど、それだけではなく、補完的に。そういうもんなんだよ。
 ☟教え方ひとつなのよ。

類体論へ至る道―初等数論からの代数入門

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