VALU & SPORTS ❽

 

markovproperty.hatenadiary.com

転売問題とponzi schemeの類似点
ー条件を下げると、Blockchainで対抗できるか
与信管理とは : 東京商工リサーチ

www.huffingtonpost.jp

http://www.murc.jp/thinktank/rc/politics/politics_detail/seiken_170608.pdf
というか、ponzi schemeってどういうことか、すっかり忘れている。

Ponzi Scheme Board Game

Ponzi Scheme Board Game

 

 

PRTIMESは自分の中でHITだなぁ。とにかく、バラエティーに富んでいるのがいい。飽きない。
👇はのんさん。

prtimes.jp

1,200万円は高いのか、安いのか。
松木の解説がお得なのは言っておこう。今日は、21時から、イラク戦。

prtimes.jp

 

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

 

否定神学 - Wikipedia
マイスター・エックハルト - Wikipedia

http://math.sakura.ne.jp/?action=cabinet_action_main_download&block_id=83&room_id=1&cabinet_id=1&file_id=616&upload_id=639

アメリカ流 7歳からの行列―目で見てわかる! (ブルーバックス)

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アメリカ流 7歳からの微分積分―こんな学び方があったのか! (ブルーバックス)

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数学にときめく―あの日の授業に戻れたら (ブルーバックス)

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ハッピーになれる算数 (よりみちパン!セ)

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 数学の感覚というのは、しばらくやっていないと本当にもやっとするもので、格子点問題「座標平面上の整数(0と自然数)のみの組で表される点を頂点に持つ正三角形は可能か」という問題の解説すら、はて、ベクトルってなんだったっけ、とそこからになる。視覚的には、原点を中心に単位円を書けば、そりゃその周上に整数の組だけの点は4つしかなかろうて、原点を合わせてどの3点を取っても正三角形にはならん、ということであるが、ベクトルを使うと、一般化して説明しやすい(つまり、回転対象を言葉で説明できるー図だと「だって、(どの場合でも)一緒でしょ」というほかない)。数学は言葉であることの妙である。この問題、中学の時に。。。。ま、そんなこと、もうどうでもいいか。つまらんことだ。

それはそれとして。
新井さんはイリノイ大学で、竹内先生のお弟子さんだったということで。
竹内外史 - Wikipedia

数学的世界観―現代数学の思想と展望

数学的世界観―現代数学の思想と展望

 
現代思想 2017年6月臨時増刊号 総特集◎ゲーデル 新装版

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線形代数と量子力学 (基礎数学選書 24)

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興味深いのは、量子論理と直観論理の対称性で、同じシンボルを使ってともに「無矛盾」なら(自分も、無手勝流でこういう記号操作の遊びをしていて、古典/直観/量子の区別を知らずにごっちゃにして「変だな」と不思議に思っていたので、そうだったのか、と)。「嘘」もメディア交換であるし、どこかで帰納的に「無矛盾」が構成される過程と考えると。ということを考えていただけなのである。

東さんは、『否定神学的から郵便的へ』ということで、分析(全体を措定して要素へ)/統合(要素を措定して全体へ)の(中間項無き)認知区分において、これをひっくり返したのが「否定神学」で(したがって、その反対として、中間項の可能性がある中)、「¬」を要素として全体を統合することの(すなわち、定義に依って、分析の)不可能を、エックハルトなどは、だから「無」なのだ、と言うのであるが、すでにして定義に依る分析なのであってトートロジーであるところ(だから、自分は「矛盾」を置いたー矛盾の同意律として。その場合、その記号が矛盾として意味を分岐させても、それは遂行的に可能である(矛盾ではない)と考えたのであるーすなわち矛盾とは無排除なのであるから、そこから或る排除を取り出すことは常に可能である。一方、無は矛盾なく無であることは不可能である(だから、最初から、無ではなく矛盾であればよい。矛盾から矛盾を取り出すことも、矛盾から矛盾ではないことを取り出すことも、現に可能である))、メディア(シンボル)交換である、という不可避の事実性に着目して、だから構成的なのである、と言ってるような気がする(読んでいなので知らない)。そうならば、さてなるほど、無限を構造(内容の無限)から、再帰的に、構成(手続きの無限)に置き換えて理解してきた数学者と同じだろうか、思う。

しかし、人間の理性を信用せずに(実は不可知と言いつつ、無限の要素を考えられる、人間の理性を信頼しているー無限の要素を考えて尚、不可知、ということであるなら)、高々有限の要素しか持たないのであるなら、それが「全体」の措定なのであるから(「否定神学」は「全体」の措定が不可能と定義している。)、「肯定神学」でも実は大丈夫なのような気がしないでもない。もちろん、その「有限」を引数とするとき、(どの「有限」な要素を引数とするかについて)その源泉が「無限」であるかもしれないのだが、可能性としては、有限性のみに着目すればよいのであるから、否定神学の条件は緩められる。人間と言うのは誠に都合よく「ご都合主義」に出来ていて、情報処理上、お得である。

ならば、「郵便的」ということが、係る「有限」な要素に依るたまたまの引数の合致という僥倖を指して言われているかというと、たぶんそうではなく、「有限」な要素に依る引数のうちの全部ではないいくつかが合致しているときに、なおそれでも、互いの構成が矛盾なく可能で、互いにそれを知っていても知らずともメディア(シンボル)交換ができ、再帰的に、特定の位置を求めることができる(つまり、自己の「全体」の認識の中で、錯乱することがない)。概念図的には、全体(誰にとっても):不可知➝「全体」(相互にとって):不可知➝有限な要素のいくつかの引数の合致➝自己の「全体」の中で特定の関係(によって定まる「位置」)を求めることができる再帰化が可能。要は、形式論理を理解するときのもっとも基本的な命題、∀x∃y(x<y)と∃x∀y(x<y)の違いのことに他ならず(いずれも自己言及するのだが、その仕方が違うのである(後者はパラドックスと成る)。「全体」を措定するにしても⦅「∀」をすでに用意するのであるから。⦆、どこかに間違いなく「在る」ことが予定されるだけでよく、どこかにあることが、個別の関係性から具体的に、たまたまここに「在る」と言えればよいーそれは、「どこかにある」と言えるから"こそ"言えればよい(むしろ、どこかになければ困る)、という仕方で「無限」を取り入れる※)、したがって、或るコメントにある「観光地」というのは、ここで言う「全体」のことであって、引数の源泉のことであるが、それをそのようにして言及する必要がないのは今述べたとおりである。私が勝手に想像するところの「郵便的」とは、そういうことである。ただ、こういうのは、ゲーデルのように、やはり実際にある計算を施してみるのがよいのであろう、自分には今のところできないが。ゲーデルは頭がいいなぁと思う。
※前者の∀の訴求の仕方を観念的無限、後者を枚挙的無限とし、この枚挙的無限を要素とする集合を考えると、超限順序数ωとなる。ωは「すべて」の順序数より「大きい」順序数であるが、この「すべて」は、数学的帰納法で言う「すべて」で、枚挙的であり、枚挙的であるとは、独立性を保っているということである※2
※2仮にある「数」が、A→BかつB→A(ただし、A≠B)で、順序を持たないなら、B=¬Aとすると、Aかつ¬Aとなって、矛盾である。