新浪漫主義時代の「ひげよ、さらば」

どうすれば世界を記述することができるか
ギリシア
アポローン/デュオニソス/サテュロス・サテュロイ/ニュンペー(ニンフ)・ニュンパイ/マイナス・マイナデス
フレーゲ
量化 全称/特称   ∀/∄
ゲーデル
様相化 可能/当為 可能/必然 ◇/▢
時相論理 - Wikipedia
『私はいつも腹ペコだ』
【ひげよ、さらば】
記号への経験を踏まえて、(…(P)…)を(P)nとする。
大文字の(再帰)にある
(順序)2、(再現)2
(反射)3、(推移)3、(内容)3、(言及)3、(排他)3
、、、、
(主体)n
相互前提供与を分析しきれるだろうか。
またそのとき、再帰/非再帰 〇/🔴 として、上記の形式論理すべてを抱合することができるか。

post truthの時代と云われるが、要は、再びそして新たなロマン主義の時代に入ったのだろう、と思う。
ロマン主義 - Wikipedia
このWIKIを読んで案外新鮮に感じたのだが、特にロマンの語源に関して、『やがて、一つの言語の変種とはもはや呼べないほどにまでその違いは大きくなり、古典ラテン語の知識のない庶民にはもはや理解困難なほどにまでなる。その時代の口語をロマンス語と呼んだ。』ということにであり、『したがってロマン主義の「ロマン」とは、「ローマ帝国の(支配階級、知識階級ではなく)庶民の文化に端を発する」という意味である。』ということにである。そこで、ギリシア悲劇を思い出し、その「反対」のものとして、ギリシア喜劇を思い出したのである。ロマンスは庶民の「ギリシア悲劇」であるが、感情移入しない者には、「ギリシア喜劇」である。
その転倒が『逃げ道』を著した、フランソワーズ・サガンによって、喜劇から悲劇へ転倒するも意味不全の童話として、かつての市民に対置"される"者どうし、女性から子供に語られる。イギリス人の『不思議の国のアリス』と比べると、興味深い。
『ひげよ、さらば』も童話であり、記号論である。ギリシア悲劇が語られ、ギリシア喜劇が語られ、子供が語られ、語られることが語られる。それは真かもしれないし、偽かもしなれないが、いずれにしても語りの延長(距離)がありー真偽は延長(距離)の決定効果しかなくー、語り語られる祝祭性(関係性の肯定)、すなわちそのような個別の経験があって、そのようなものがあるとしたらであるが、純粋な叫び(或いは、叫びそのもの)ではない。

最近ではこの対象と成るのが、「朝日」の言葉使いである。
☟ここでは句読点が

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)

【新版】日本語の作文技術 (朝日文庫)

 

 ☟ここでが助詞「が」と「は」が


語られるが、それはある程度の話であって、原理的に無矛盾に排他的であるわけではない、つまり「距離」によって測られることに過ぎない。絶対的ではなく、かといって、絶対的に相対的ではなく、距離的である。朝日の言葉の特徴は、なぜかそれを(敢えて)語らないところにある。自己投棄してしまって、それを当然としている。敢えて「自分は自己を語る者だ」と語るのは確かに恥ずかしいことであるが、それが直ちに自己を投棄することに繋がるとは限らず、留保や躊躇や諧謔など、投棄に至らない個別の否定の方法もあるのであって、これでは悲劇性の口調である(悲劇的ではない)。喜劇性の口調だと、祝祭的であろうとは思う。なるほど、抑圧的である。

http://www.hico.jp/sakuhinn/6ha/higeyosaraba.htm