思い付きか「構想」か

篠沢教授に2満点

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外国で先行例があるのか?
いつも言っていることだけれど、すごく簡単。
インプット⇒アウトプット⇒インプットの再現性を担保するのは適切な資本蓄積があるかどうか。
スポーツ少年団が成立しているのは、部活動⇒国体⇒就職(体育会系就職。こうなると能力というより、協同共感優位。社会において”そういった”共感性の高い振る舞いを選好するメンバーが相対的に優位を占めるため、支配的)という経路による蓄積が100年近くあるからだよ(学校はもはや、部活動の為に在る)。

これは2つの可能性があって。
①言っている通り、少年団方式
②業者による、除雪ボランティア(協力)方式
まぁ、②になりそうだけれど、それがどうやって成立しているかを資本蓄積って観点が抜けると、戦前の総力戦体制下での(労使一体化)労働運動だね(おそらく、このレベルの理解)。これがねぇ、最近でも、「ゴミ分別運動会」って言えるようなことが、もはやそれ自体が目的化して行為をドライブした町内会が続出したりしたでしょ、(ごみ問題に関心を持ったり、分別自体は必要なんだけれどーより重要なのは、リサイクル産業を構成したー投資したってことなんだけれど)社会って連続しているから、結構シャレにならん、27種類の分別って。。。。それ、意味あんのか。ノイローゼになる人も出たりね。こういった「成功例」を見て、「できるだろ」って思われるのが良いことなのか、どうなのか。何度も言うけれど、大日本帝国産業報国或いは国防婦人会じゃねえからな。

構想ってポンチ絵じゃねえぞ。再生産図式だ。わかってんのかねーわかっていないと思うけれど。

教育ジャーナリストのおおたさんも無駄だって指摘していたけれど※、本願は理性教育としての市民教育の中心を為す論理教育。ただ、現行の学校制度という(再生産される)産業構造内で行うにはメソッド化(教師)、ドリル化(児童)されていなければならないが、論理教育自身にはそれが不足しているので、論理のより具体的な表現(記法)であるプログラムにフェーズを落としているんだよ、そこでは可能だから。ただ本当は、プログラムっていうよりアルゴリズムと「デカルト」を教えて欲しいんだけれどね。それなら、PCじゃなくても、ピタゴラスイッチでもいいんだよ。要素からシステムを構成する意味を教えてくれれば。論理は所詮文章で、文章は言葉の演算だってね、こういうことが「身に染みて」わかればいいんだよ(国語教育だと(従来の芸術鑑賞ではなく「論理」と銘打っても)形式化しないから十分な理解に至らないー自然言語の文脈理解では限界があってそれがまさに論理教育を独立に必要とする社会的理由。形式化しないと駄目。アンセルムスはよいけれど「村上春樹」じゃまるで駄目なんだよ)。だから、倫理教育でもいいわけ(倫理は論理の母)。でも、そっちだと修練じみた(パターナリズムの)道徳教育になるでしょ、それではまるで意味がない。隣接していることに、法律(のリテラシー向上)教育ってあるけれど、そっちは概ね知識の教授に終わって(これも一つのパターナリズム)、これまた(啓蒙という点では、社会的に意味があるが)本願から離れる。
何度も言うけれど。本願は理性教育である市民教育の中心を為す論理教育。
これを忘れては絶対に駄目。

※いくらかの誤解があって。競争相手がいて、英語教育なの(最近では、体育におけるダンス教育もそれに似ているけれど)。英語教育がなぜ、教科化に至ったかってことなんだよねぇ。わかりやすく言うと、”Head, Shoulders, Knees and Toes ”があったからだよ。それね、簡単に思うと違うよ。それが「ある」と言うためには、結構な蓄積が要って、それらの上に、そういったものも(中には)「ある」なんだよ。そうしてそこに至って、どんな頭の固いおじさん教師でも、どんなやる気のないおばさん教師でも、周囲の先生方といっしょになって、練習すれば教えられるようになるでしょ、ってこと。ここまで落とし込んで初めて、全国一率で授業化できて、その延長に教科化があるんだよ。プログラム教育における「お絵かき」は英語教育における"Head, Shoulders, Knees and Toes "なんだよ。教科化って、そこまでしないとできないんだよ。