表の国体「東大」、裏の国体「体育会系」、旧き良き市民育成「武蔵」

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〇世界大学ランキングの示すことーgood東大とbad東大※と(或いはbad東大に含まれるかもしれない、理Ⅲを(暫定的に)頂点とする。ただし↴a)偏差値教育の矛盾
※この表現は(分かる人にはわかるのだが)、東日本大震災による賠償並びに補償問題の対応策を検討する際に浮上した、東京電力の分割論上の表現になぞらえている。 
〇このとき、仮想的に東大分割論という考え方を外挿すると、文系大学は地方国公立大学でよいならば、(偶々)東京に在る、いち地方国立大学としての「東京(大学)」(bad東大)も考えられる(good東大は別に在る)。
〇一方で、『なにがなんでも東大ではない』とは、私的収益の鑑としての社会の在り方が変わったに過ぎない(古くは「末は博士か大臣か」に集約されるキャリアパスを東大が代表していたにすぎず、『開成の子は海外を目指す』『(↳a 東大理Ⅲを含む)医学部の躍進』と言ったところで、モチベーションに変化があったわけではないが、社会的な富の蓄積に変化(増大)があって、技術的に可能ならば自己利益がより大きい方を目指すことでは一貫している。それは例えば一部の移植手術などの先進治療が日本で受けられない場合に似ているかもしれない。豊かになればアメリカの医者に心臓手術を頼る日本人が増え、だから逆に、アメリカから日本人が制限されることだってあったのだ。ちなみにハーバード大学がアジア系(なかんずく中国系)の入学を制限しているとはまことしやかにささやかれることである)。
〇名門校「武蔵」は指摘の通り、自由な校風で、しかしそれが『大正時代にすでに』実践されていたことに注目しないわけにはゆかず、要は、1918年の改正高等学校令による、私立の旧制高校(現在の大学教養課程)で、エリートを育成していたということであり、かつての市民とはこのエリートのことだったのであって、或いはいまでも、理想的な市民教育のように映るのかもしれない。
〇ところが、現在の市民とは、大衆社会の市民のことであり、現在社会(後期近代社会、後期民主制社会)だからこそ(高度専門教育とともに)市民教育が求められるのだが、旧き良き市民教育が一概にそれに合致するかの判断には、その対象が同じであるかの見極めに慎重であって良く、留保がつく。
〇また一方で、国立大学教育学部附属校のエリート校と(すでに)化している現状について、異議が唱えられている。エリート校が必要でないのか、合目的的でないからエリート校は(例えば、旧ナンバースクールの系譜に連なる※)地域の別の進学校に委ねるべきなのか。※かつての「日比谷」がどうだったかが学区制との関わりで影を落とす議論になる。
〇希望としては、教育研究の目的に合致する2E児教育(の教育実践)に舵を切ってもらいたく、合目的的であると同時に社会理想の観点から多様性を実現して欲しいのであり、エリートの存在も多様性の点から一概に否定されるものでないとすれば、2E児たちが"結果として"エリートと呼ばれる階層に分別されるキャリアを築こうとも構わないはずであり(ここで大事なのは「逆が成り立たない」こと、即ちエリートにならなければならないのではなく、エリートになる子もならない子も(所謂「普通の子」と同じ様に)いて、多様で自由なキャリアパスが保障されていることである。)

休憩

武蔵高等学校 (旧制) - Wikipedia

名門校「武蔵」で教える 東大合格より大事なこと (集英社新書)

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変な話であるが。
内田樹がフランスの新聞を翻訳して、オリンピック招致の問題に触れている。
詳しくは知らないが、聞くところによると、日本の刑事法上訴追されることはないらしい(フランスの刑法の問題であって、この場合、刑法には属人主義、属地主義と言ったことがあるが、どうなるのだろう)。
ただ刑法上はそうであって、オリンピック委員会の「法」ではどうなるのか、ということが別にあるだろうか。要は、決定が無効になるのか、罰則金を払うことになるのか。この期に及んでは、開催を後悔することは出来ても、開催地の決定を無効とすることはできずその場合罰則金を支払うとなると、事前(招致)に金を払い、事後にも(罰則で)金を払いに、二重に(日本から日本以外に)金を搾り取られるだけで、その分誰が潤うのだろうか。このゲーム運びには、なかなかむず痒い気持ちになってくるのである。やっぱり、オリンピックは、ヨーロッパの貴族の遊びであるから。

つまり、オリンピック招致を考えるにしても、招致したい社会欲求があったのであって、結局それが社会的富の移動を意味するのに過ぎないのであるなら、(旧弊の、日本型の「学歴社会」と同じ様に)社会的非効率が土壌の問題としてあるのではないのか、ということが、気になるのである。

いや、内田樹のような、社会的非効率を体現するような、bad東大の申し子がそこに言及するとなると、なんだか、愉快なような不愉快なような、滑稽な気持ちになるというだけである。