現代における普遍論争

さすが「リベラル」としか、言いようがない。

やっぱり、倫理は(論理の母として)、一般的な教養として  しなければならないと思うなぁ。日本人の理解の場合(近代社会はいきなり社会変革思想の社会主義から始められたので)、前近代/近代の対立を念頭において、道徳のパターナリズム(理性と自由の反対物※)としてしか、受け取られないのは、市民の教養として問題だなぁ。
せめて、普遍論争のエッセンスくらいは、わかりやすくどこかで教えたほうがいいんじゃないかと思う。
※しかも、前期近代においては一般的に、協同性とその前提を為す共同性の判断において(しばしば理性の名のもとに)、道徳が当然に求められてきたから、その分話が複雑になる。特に、日本においては、おおむね前期近代主義者どうしの二次的な争いがウヨ/サヨであって、その議論は、現在に特に利益もたらさないのが、問題。

特に現代においては問題がある。論理的に考えるなんて、近代が理性を本旨とする以上、当たり前じゃないか、と思うのは、大きな誤解があって。論理的に考えることを禁止するということが、むしろ現代だからこそ、起こるのだということには、もっと注意が払われてよい。この国にとって問題なのは、教育問題にも、市民社会にとっても、理性の自然な表現である論理に反対する、現代のキリスト教であるマルクス主義の横溢なのである。マルクス主義論理学は疑似論証(任意の前提名辞による、「為にする議論」)に過ぎないということの理解が進んでよい。フェミニズム内田樹もみんなそうである。他者の大きな犠牲の上に私益を権威的に増大させたいという動物的感情だけがある。動物的感情に関しては、自然のことなので、それを否定することは本質的には人間否定になるので慎まなければならないが、それを理性と対置させなければならない。すなわち、論理によって。

 
👇実は、「日本人」の論理

中国人の論理学 (ちくま学芸文庫)

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「リベラル」の議論は一般的にコレ(実在論)で、問題の在ることが多い。この論法は、(自然科学とは異なるが故の)パラドックスに由来し、論理的な遂行性を担保するフェイズダウン(様相ー可能の論理)が考えられなければならないと個人的には思っているのだが。それを無視すると単純な「野蛮」。そして、「リベラル」の議論は、実際にソレ。また、内田樹なんだけれど。内田樹って噂では哲学者らしいよ、しかもキリス
ト教系の大学で教えていたらしい。まぁ、あくまで噂だよ。