憲法解釈ー「主語」が機能か

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このコメントで着目しなければならないのは『少なくとも、司法試験レベルでは』なんだよ。どういうことか。
主語」と云われたとき、本当にそれを考えなければならないか、その根拠は明瞭か、ということなんだよ。

即ち👇のような、憲法学に先立つ(がゆえに憲法が依拠する)言語学、日本語研究の知見があるから推移的に考えれば、憲法学者ロジックは、これに由来して真となるか偽と成る

現代日本語文法5とりたて・主題

現代日本語文法5とりたて・主題

 
日本語の「主題」 (ひつじ研究叢書(言語編) 第100巻)

日本語の「主題」 (ひつじ研究叢書(言語編) 第100巻)

 

 特に注目して欲しいのが、👆のレビュー。問題は、このレビューで指摘されるような問題意識を憲法学者が持たずに、蒙昧のママ、感覚で述べているということ。
それでは少なくとも、近代法を研究する学問とは言えない。
彼は何と言っているか。

機能主義言語論の迷妄 投稿者YAGURUMA・剣之助
2016年12月5日

 言語は話者の認識の表現をその本質とし、対象―認識―表現という過程的構造に支えられている。文法とはこの過程を媒介する規範であり、過程的構造との関連が本質的に解明されなければならない。言語は規範に基づく特殊な表現であり、語・文・文章という言語表現の諸単位諸段階にわたってさまざまな規範が表現の構造を媒介する。それぞれの単位における法則を、本来、語法、文法、文章法とでも名づけるべきであるが、歴史的にこれらをまとめて「文法」の名で一括して呼んでいるので注意が必要である。

 憲法学者はおそらく主題と主語の区別もついていないし、ましてや機能と認識の区別もついていない。そしてもっとも重要な事実は、日本国憲法は「コモンセンス」であるか、ということ。少なくとも慣習法ではない。ならば、言語構造に、どこまでも執着しなければならない。なぜ、それを欠いた見解が述べられるのか、伝統的に、或いは、歴史的にそのような文化上、見解が形成されたとしても、憲法上は無意味である。なぜなら、それはアドホックな、帰納的誤謬を招くからで、近代法の原則に抵触する虞があるからだ。どこまでもテキストに拘らなければならない。そして今は、機能的に解するのが、言語学の知見であり、いままでも言語学の知見を当然のこととして受け入れてきた以上、その先験を今回も受け入れるのが、自然である

憲法学者の言うことは、ほとんど信用にあたいしないのが、真実である。なぜなら、それは論理に反するからである。日本の憲法学は、理系に対しては言うまでもなく、文系の中でもとりわけ、いやもっとも遅れた学問分野で、もはや学問の名に値しない

言語上、わかることは唯一つー解散の適正な時期は、意味論的には自明ではない。
機能的な説明があるのみである。構造上の齟齬が明証できない以上は、それ以上の積極的な意味を何ら認めるべきではないそれは国民主権に反する
それが憲法の真実である。

※ただし、解釈権を、政府、国会、裁判所、それぞれが持つ。裁判所が、この件に関して、「立法」するとは思えない(アメリカの裁判所と異なって)。テクニカルなことを言えば、「アメリカ型キメラ」の日本国憲法上の裁判所に、立法権がなぜ認められていない(と理解できる)のか、となるが、これについてはアメリカ憲法史に沿う時系列のある位置に日本国憲法が存在するからで、いわば(民主主義に反する)「エリート独裁」を打破する、より優越的な機能を国会が(日本国憲法の祖型である、大日本帝国憲法に規定された内閣制の外形を継承するようにして、つまり体系上は別になるとしても、たまたま無理なく使えるものは使って)持ったのであり、日本国憲法がアメリカ型でないわけではない(つまり、アメリカにも憲法制度史或いは学説史がある)。


 
腐れ儒者はいつでも口元に笑みを湛える

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