「村上春樹」以後の世界観

カズオ・イシグロ氏の力強い感情の小説は、私たちが世界とつながっているという幻想に隠されている闇を明らかにした

ノーベル文学賞の選考委員会

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もう、村上の受賞はないかもしれないな。
村上ほど、時代的な気分を表現した作家はいなかったけれど※、普遍的な方法論を遂に理解できなかったために。そういった意味で、或る意味実に日本人的で、考え方については模倣を脱しきれなかったし、本人も、新しい解答を用意する気などなかったように思う。あくまで「秀才」的に、「その答えは教科書にはこう書いてあるよ」と言っていただけで(本当の秀才なら、その程度のことは言わないが)。それを作家らしく表現に凝っただけで。だから、村上をつまらなく感じる人間には、本当につまらない。理解すべき中身はないから、村上は共感すべきもので。だから、彼は別の意味で評価されるべきで、アンデルセン賞なんかがその例だ。ノーベル賞ではない。
※そう言った意味でも、『ノルウェイの森』が村上の最高峰。もともとの短編がいかにも村上らしい短編で、  的なのだけれど、それを長編にするにあたって、「おもちゃ」に陥りそうな危険な綱渡りをなんとか渡りきってリアリティを獲得した。「僕」の、独善で語られる世界の、フォーカスの脇にある「『僕』の本当は見たくないもの」も同時に読者に見せることで、「僕」の言い訳も虚しく、「僕」を相対化させることができていた。そのどうにも「僕」のコントロールからはみ出す世界を腑に落ちることとして、読者の、本来の第三者としての冷めた目を取り戻させる、感情に訴えることに成功している、村上文学の中で唯一無二の作品だったから(だから、この小説の隠れた主人公は、「僕」から都合よく扱われた末に嫌悪される、名も与えられなかった少女たちだと思っているーこの「名も与えられなかった」=callされなかったといううことが、冒頭においてcallされる「僕」の反対的に、象徴的なのである。このことこそが『ノルウェイの森』の真の芸術性である)。あとの作品はすべて「僕」のコントロールからはみ出さない、アポロン的な世界観に後退している。『ノルウェイの森』直後だったら、ノーベル賞受賞に、あくまで彼の中では、一番近づいたのだと思う。女性蔑視であったりとか批判もあるが、少年がそのような気分を当時持っていたのは事実だと思う。そういう少年の未成熟な幼稚さを露呈した点でも、あえて評価したい。少年とは、あの「合唱団」のことではないのだーあの「合唱団」の性的搾取についても、ようやく暴露され出した。要はそういうことである。そのことを顕彰するのではない、その当たり前の前提を体現する「僕」の、その前提が揺らぐのだ。典型的なボーイズ・トークというものがあるとすれば、典型的なボーイズ・トークの小説であって(作品中の会話部分を限定して指すのではない。「僕」の独白が読者との会話になっている。)、反教養小説である。だから、それを対象化したときに、アートと成る。
村上自身がそのことを理解できずに(一部)自己模倣しようとして見事に失敗した(『色彩を持たない田崎つくると、彼の巡礼の旅』)。『ノルウェイの森』は、その時代との近接さゆえの濃密さを湛えて偶然生まれた、奇跡だったのである。

 
👇ある搾取の時代

 

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僕が興味あるのは、こういう無根拠な自信(と他者攻撃性)が、男性の幸福度とどれほど相関があるかであって、一度誰かに調べて欲しい。縄張り(親密空間)と征服欲も関係している。そう考えたら、都会の雑踏ってすごいよね、常に、互いの縄張りを侵食しているんだから。