メモ

自習用に購入した本が、予想に反して、専門的な記述もあっておどろいている。
専門書ではないので、本文はそれほどではないが、注釈が専門的である。

たとえば、

「主権」は、対内的意味と、対外的意味があって、両義的なのであるが、対外的意味を欠くと、「国権」となって、ドイツはその理解のもとに帝国を形成した(この場合、国家の三要素は、国民、国土、国権である)。

なるほど、と思う。

また、国民主権と国家主権との対比において、権原の直接性から説明される。国家主権というとき、権力行使が存在から直接に説明されず抽象的になるが、この直接性の消去というドイツの知恵(苦肉の策)が、国体を考えるうえでの大きなヒントと成る。国体とは由来から説明しようとしているのであるが、結局は、権力関係の在り方を規定しているのであって、ただし、現存在の直接性が消去されているのである。
「官僚主権」と言うのはあくまで   であって、それは国家主権の一類型であるし、国体の側面の説明が入り混じっているに過ぎない。
国家主権は、戦前の日本の主権概念の定説だったのである。
日本はあまりに多くのことをドイツに拠っている。戦後は、「アメリ憲法」になったのにも関わらず。日本の「護憲派」は実は国体の護持が目的であって、「アメリ憲法」の護憲派ではないのである。
「国権」という言葉が日本国憲法に出てくるのは、第41条、国会についてで、「アメリ憲法」たる日本国憲法の解釈においては、国民主権と整合的でありかつ国家主権に張り付いた国体の一側面である「官僚主権」を否定(エリートの権限の制限ー特に、裁判所の在り方に関わる。)しているのであって、それはアメリカ法学史上、アメリカ法制度史上のプラグマティズム法学、リアリズム法学、プロセス法学の系譜につらなる解釈に拠るものと理解するのが、おそらく自然である。そういった意味では、本当に憲法学者でありえたのは芦部のみであって、樋口などは見当はずれなのだろう。ただ、芦部は志半ばで研究を終えたのであって、その芦部の跡を継ぐ者がいないことが、この国の憲法に対する理解を妨げている。
ドイツ流の帝国主義はそのようなことだが、最近興味深いことに、イギリス流の帝国主義あるいはその後継を推奨してやまない人も現れている。ドイツ流の帝国主義は、主権のうち対外的意味を等閑に付したのだが、イギリス流は逆のようで、対内的価値を、無視するわけではないが、換骨奪胎するのに長けている。議会主権がそれである。これは国家主権の一類型とみみなすべきか、あるいはそれに近い別のこととみなすべきか。国民主権の、少なくとも一部何かしらを、否定していることには違いない。(議会主権と銘打ってはいるが、歴史的に考察すると)主権の両義性が揺らぐのであって、両方の帝国主義における一元管理への意欲を見出すのである。
正しい論理には正しいパラドックスがつきものであるが、主権の持つ両義性は、正しいダブルスタンダードであると言えて、これは損なわれるべきことではないのである。

 

国連と帝国:世界秩序をめぐる攻防の20世紀

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 丸山も、憲法学者どころか法学者ではなく、ましてやアメリカ法学者ではなかった。

丸山眞男と戦後日本の国体

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