【メモ】機能主義様式公法学

機能主義様式は、基本的に、個人主義とコレクティヴィズムというダイシーの二つの鍵となる概念を再定義しようとする試みの産物であった。個人主義を構築すようとする際の原子論的前提を問題にすることによって、また自由とコミュニティという中心的な政治概念を再起動させることによって、機能主義様式のものたちは、個人、国家、社会の関係について、まったく別個の、より正確な評価を定めようとしたのである。

機能主義様式公法学 マーティンラフリン(小川祐之訳)
https://www.waseda.jp/folaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-045020155.pdf

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これなどは、法学部の1年生が、これから法学を学ぼうとするときに、ゼミ形式で議論してみるには、ちょうどよいように思う。
先生は、学生の議論が煮詰まってやおら、「規範」についてから説明を始めるのである。
他にも、法学的な論点はいくつもあるのだが、基本的な事柄ばかりなので、それは先生に任せておいて。

自分は機能的に考えてみたい。
つまり、カントの定言命令と選択可能性を機能上の「距離」として、形式論理から説明したいのである。「距離」の大きさは、形式的に定まる。
不倫は「悪」かについてを考えるとわかりやすいと思う。

[距離1]不倫は悪である (定言命法
[距離2]不倫は「悪」と一般に決める(期待違反の意味論)
[距離3]不倫は「悪」と個別に決める(期待違反の自己決定)

かつての刑法並びに現行の民法は、[距離2]と[距離3]の間である※。
ここに、刑事上の「親告罪」と民事上の「慰謝料請求」も入ってくる。
人権から説明すると、刑事罰は人権の制限であり、「より大きな悪」である。したがって、それは抑制的な方が良い。「より小さな悪」と比較されるのであるが、正当防衛論が言っているのは悪の排除であって、それは市民の責任と一方で観念され、その場合、行為の違法性が阻却されるのである。そうと明言されはしないが、善が対置されるのである。政策上の「危険負担」はこのような内部構造にもとづく。自由な行為が「善」であるとき、しかし、その部分に「悪」を含意するならば、その排除によって「善」が達成されるし、その行為もそもそも「善」である。これは否定論法に依拠し、排中律は成立していないために、逆転して考えると、帰結も逆転する"可能性がある"ので注意が必要である。このような逆転について、二人は言い争っているようである。「親告罪」では「より大きな悪」への対抗措置の主体による支配があり、「慰謝料請求」では「より小さな悪」への対抗措置への主体による支配がある。いずれも「善」の回復を企図し、外見上は同じか或いは似ていようとも、ネガとポジの関係にあるのである。公法を考えるときの基本は、帰結が外見上同じであっても、同じロジックで導かれなければ別のことであることの確認である。

形式論理で定式化することが目標であるが、もちろんまだ着手していない。

※下のような場合は、[距離3]であると考えられる。
事実婚における契約例)
なお、機能主義様式公法学は、プラグマティズム法学、リアリズム法学とも関係があって、即ち、日本国憲法の理解とも関係があると考えられる。つまりは、国民主権と国家主権についてである。

 

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👇は「危険負担」を考えるうえで、特にプライバシーの構成と比較すると興味深いと思っている。

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