何を目指していたのか

 

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 若槻が出てきたので。

司法省法学校の入学試験というのは『論語』『孟子』の解釈と、『資治通鑑』の白文訓点の2課目だった。

若槻禮次郎 - Wikipedia

意外に知られていないかも。こういったところだよな
後は、余談。

明治25年(1892年)7月、帝国大学法科を98点5分という驚異的な成績を残し、首席で卒業した。同期に、後に司法大臣、鉄道大臣を歴任した政党政治家・小川平吉、数期にわたり内務大臣を務めた官僚政治家・水野錬太郎、常設国際司法裁判所所長・安達峰一郎らがいる。若槻は、法学校でも帝国大学でも常に首席であった。荒井賢太郎と安達峰一郎とが彼の次席を争っていた。

 なんか、江田五月さんみたいな人だな。

大正13年1924年)、加藤内閣で内務大臣となり、翌年、普通選挙法と治安維持法を成立させる。

どっちやねん。

加藤高明が首相在職中に死去したため、憲政会総裁として内相を兼任し組閣する。この第1次内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された。

 やっぱり、「江田五月」だったりする。

若槻は大蔵省に入り、主税局長、次官を歴任する。

 主計局長は荒井さんだったりする👉荒井賢太郎 - Wikipedia

 
枢密院議長は卒業席次1番の指定席として、副議長は1番じゃなくてもなれる。書記官長は多士済々。

書記官長 - Wikipedia