我々はなぜ、大阪なおみに苦情を言うのか

私は、大阪なおみを支持します。


【節度、分限、分際、責任、生意気】

つまり、彼らの言っていることはこうである。

「参加者の分際で、生意気言うな」

「参加者」としての分限をわきまえて、責任を果たせ、即ち不利益を甘受して、その限りで努力し、一体的な利益の実現に反するな。

もちろん、このとき、主催者側には主催者側の責任(即ち、不利益の甘受)がある。
それらが一体となって意義が共有されることが、理想的な社会の在り方として日本の部分社会で当然視されているのだ。

しかし、良識と良心は異なる。

それでも大阪なおみを支持するのは、どのような良識であれそれが形容上制限的であるならば、良心の方をこそ尊重しなければならないからだ。アメリカではそうであるし、敗戦処理を経て後我々がコミットしてきたアメリカンデモクラシーとはそういうことである。

 
👇『良識派

 安部公房全作品 15

安部公房全作品 15

 

👇ボン・サンス 

👇スポーツと日常 

僕がバナナを売って算数ドリルをつくるワケ (単行本)
 

👇良心的兵役拒否 (ウィキペディア(Wikipedia) 宗教理由に限らない。

 

なお、以前大阪さんの発言を取り上げた日本のマスコミは誤訳していたことが、これで明らかになったと思う。彼女はそのときも、明確に主張していた。


我々はなぜ、憲法を改正できないのか。
いや、憲法改正自体は、結果論に過ぎず、国民投票できないのか、と言い換えるのが正しいだろう。
国民主権とは、権力契機を保持することである。それだけがファシズムにくさびを打てるからであり、我々が時に判断を誤っても、それを梃子に包括的な支配を受け入れることを拒否する機序だからである。
国民主権を謳う日本国憲法下では、国民投票をすべきである。
なぜなら、我々国民が主権者だからであり、これは他の諸事情と勘案しては譲ることのできない、根源的であるがゆえに当然の権利だからである。
そして、権利は行使されてこそ、権利である。
それがいやなら、「議会主権」と言い換えればよい。しかし、それは帝国主義の都合の良い言い訳として利用されてきたことを、付言しておく。
中国、ソ連アメリカいずれにしても。