上杉の「天皇即ち国家なり」とはとどのつまりはデデキント切断のことである

前回は興奮してばかりで何が言いたいのか、自分でも整理がついていなかった。 

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 ふたたび、この図を用いて

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ピュタゴラス派―その生と哲学

ピュタゴラス派―その生と哲学

 
数とは何か そしてまた何であったか

数とは何か そしてまた何であったか

  • 作者:足立 恒雄
  • 発売日: 2011/06/23
  • メディア: 単行本
 

ユリウス・ヴィルヘルム・リヒャルト・デーデキント
1831年10月6日 - 1916年2月12日
ムスタファ・ケマル・アタテュルク
1881年5月19日 - 1938年11月10日
上杉 慎吉
1878年明治11年)8月18日 - 1929年(昭和4年)4月7日

 

 このとき、国体/政体論争は、注目されいる以上に大切で(また、なぜ「注目されないか」に本質的問題が潜んでいる)、素朴実在論/観念的実在論の対立を背景に、一致論は実学的であり、分離論は「実証的」であり「実験的」であり「  的」なのである。このときの、抽象的な演繹的側面(或いは形而上的な側面)と具体的な帰納的側面の明確な分離への意識づけは、当時勃興しつつあった社会科学の影響を受けている。上杉にとっては、カントとスペンサーの結合である(神学にも詳しい)。美濃部が「定説」を連呼したのは、上杉たちがなぜそんなことを言うのか実はよくわからなかったからである。彼の自意識に在った「論理的」とは積み木の組み立てのごとき話であって積み木がそこに存在するのは自明なのだからと問題意識を持たなかったのであるが、上杉はそれが実在だと喝破した。つまり、神学議論の伝統を踏まえられたかどうかであり、ヨーロッパの知的伝統に沿えたのは本当はどちらであったかということである。

 そもそも「国家主権」とは、君主主権/人民主権の対立が「中央」/「地方」の対立にプロットされるとき、それを棚上げするための抽象性に特徴があり、具体的問題を内部化して一体的に取り扱う包括的な形式で実は都度の便宜であるところ、シーケンスの両端の応答というその素朴な乃至単純な機械構造が期待のパラドックスを孕んで相対的であり、結局は都度の趨勢に左右されることが懸念されたのである。

 だから、上杉は、「国家主権」とは「民主主義」である、と言ったのであるし、このとき注意しなければならないのは、この『民』とは無産大衆のことではなく、「自由主義」の「自由」を謳歌する資本家に連なる、せいぜい都市民であって、農村なら未だ企図段階にあった社団(法人)における、唯一の「自由」な「戸主」のことだったのであるが、それは農本主義を経過して漸進するとした期待以上の急速な資本主義化によって形骸と化したのである。
 つまり、「自由」とは資本移動の自由のことであるから、「自由主義」を信奉する美濃部には自明のことで、殊更に言上げする理由がそもそもわからなかったのだろう。だが、その「自由」を決するのが国会であるがゆえに、国会擁護/国会排撃(および政党排撃)の政治態度の違いを生んだのであり、穂積の(エリートの分別を以て大衆を忌避しつつも)、レッセフェールの反省を以て、政治的専制を懸念するが所以の慎重な、留保的な態度を生んだのであるし、一方で、その後継を吹聴しながらも、上杉の大衆へと寄り添う態度があったのである。上杉にとっての理想は、個々の現場で議論と通じて自ら決定できる能動的な民衆とそれを具体的な行政処理で応える有能な官吏であり、しかしそれには総合的なリーダーによる善導が求められたのであって、それらすべてを統べる理論であったが、それが「国家主権」であってならなかったのは、一方に偏る趨勢に支配されるべきではなく好い謙譲のバランスを保って統一されていなければならなかったからであろう(趨勢ではなく謙譲)。これが「寛容」ではなく「謙譲」であるがゆえに『民法出でて忠孝滅ぶ』の言であって、穂積と上杉が、それでも連なることを意味して、一方美濃部にとっては、所詮それにしたところでシーケンスなのであるから、美濃部と上杉らとの争いは、契機を巡って対立しているのに過ぎなかったのであろうが、もとより当時の民主主義の実像は、中央/地方にあって、国会・府県会/群会・町村会の二層構造だったのであるから、上杉は『国際的』視点、視野(『吉野作蔵と上杉慎吉』)を持っていた以上に、広い国内的視点、視野をも併せ持っていたのである(「国際的」と評価されたのは或るトルコ成年※との邂逅があって当時の侵略的な国際関係の実情に通じた経緯のゆえであるが、それが実地の地方行政現場の視察の合間であったのが興味深い。上杉はもとより草の根的な交わりが好きだったようであり、彼の出自からすると、最期の草莽の士と言えよう)。

 ※ケマル・アタテュルクの時代であり、(ナポレオン戦争後の)ロシア強勢が北欧から東欧乃至バルカン半島に及ぶ時代である。

 

 

戦後の(の云う)アメリカ法制との接ぎ木とも関係して微妙である(つまり、実証主義にも、ヨーロッパ実証主義アメリ実証主義がある)。

 

 

 

 

 

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 上杉は神学にも詳しく、それが後の、資本論を始めて翻訳した、同志社大学神学部の  との意気投合に役立ったのであるが、彼がただの狂信的な神権主義者でなかったことがわかるのはそれだけではなく、おそらくご子息に与えた影響もあっただろう、お二人とも共産主義に共感を持たれたようである。もちろん一度は教養のある青年の誰もがかぶれるのが常であったが、なにしろ「あの上杉」のご子息なのであるから、それ以上の縁を感じたことである。
学のない人間で言葉が拙く、失礼な物言いで誠に申し訳ないが、ご容赦いただければ幸いである。