美濃部の背後には福沢が居るー「定説」の背景(美濃部の詭弁とは何であったか)

この国の近代以降の論争は、右翼であるか左翼であるか以上に、親福沢であるか反福沢であるかの方に意味があったのである。
江戸を失って明治に始まる戦前の到達が「右翼と言うも可、左翼と言うも可」となったのも宜なる哉。
ちなみに、福沢は共産主義共産主義者も嫌っており、パブリックエネミーに指定したが、上杉は、マルクス主義者の理解者であり、よき友であった。


● 南鐐二朱銀
 明和8年(1771)、川井は勘定奉行にまで出世しました。
 川井は画期的な貨幣を発明しました。何と、”銀で金貨を作った”のです。
 明和9年(1772)に銀座に命じて作らせた「二朱の歩判」です。
素材には、これまでに例のない南鐐銀(ほぼ純銀)を使用しました。
ただし、「金ニ朱」とはしないで、「以南鐐八片換小判一両(8枚で小判1枚)」と書きました。 南鐐二朱銀 重さ2.7匁、ほぼ純銀
 よく歴史の解説書で、江戸時代の銀貨を「秤量銀貨」と「定量銀貨」に分け、明和五匁銀と南鐐二朱銀を共に「定量銀貨」としていることがありますが、これは江戸時代の貨幣制度を誤解させる説明です。明和五匁銀は定量銀貨といえますが、南鐐二朱銀はそうではありません。銀座で発行した銀の貨幣ですが、制度上は「金貨」の一種です。当時の人は『金代り通用の銀』と呼びました。
 また、この貨幣は「名目貨幣」でした。金2朱に相当する銀の重さは純銀で3匁ですが、この銀貨には2.7匁の重さしかありません。かつて荻原重秀が”幕府の威光があれば、瓦礫を貨幣にすることもできる”と言ったそうですが、この二朱銀はそれと同じ考えの貨幣です。
 当初は抵抗のあった商人や庶民でしたが、日常の支払いに便利なことから、次第に普及してゆきました。南鐐銀であることで、名目貨幣であることも気にされなくなったようです。

田沼意次の貨幣改革

幕府の改鋳差益金は約500万両にもなった。従来この貨幣改鋳は経済の大混乱を招き、未曾有のインフレ(元禄バブル)をもたらしたと考えられてきたが、金沢大学教育学部教授の村井淳志の研究によれば、元禄期貨幣改鋳の後11年間のインフレ率は名目で平均3%程度と推定され[1]、庶民の生活への影響はさして大きなものではなく、また改鋳直後の元禄8・9年に米価が急騰したのは冷夏の影響としている[2]。その一方で、改鋳により豪商や富裕層が貯蓄していた大量の慶長金銀の実質購買力は低下し、商人たちは貨幣価値の下落に直面して貯蓄から投資へ転じた。こうして従前は幕府の御金蔵から商家の蔵へ金銀が流れる一方だった経済構造に変化が生じ、これ以上幕府財政に負担をかけずに緩やかなインフレをもたらすことが実現された。その結果経済は元禄の好景気に沸いたのである。現代の観点から、重秀の最大の業績はこの改鋳であり、この改鋳を「大江戸リフレーション(通貨膨張)政策」と評価する説もある[3]。綱吉時代が終わり、新井白石らがこの政策を転換して以降の経済停滞は「白石デフレ」とも呼ばれる。

荻原重秀 - Wikipedia

要は、よく「物々交換」とは、例えば魚と肉といった消費物の交換を指すが、実は、貨幣といった耐久物との交換のことであって、「信用貨幣の創造」とは、つまりはこの「物々交換」を止めたということである。
止めるとどうなるか。
価値を胚胎して消費を促すのであり、物の退蔵(もちろん、「物々交換される」カネの退蔵を含む。)を避けることができた。つまり、ここにカネの2面性が完成した(それ自体の価値を持って取引される「物」としてのカネと尺度としてのカネが明確に分離されて流通されることにより。)ということである。
従来(貨幣経済の発展した現在においてすら)悪質なインフレが起きたと考えられたのは、ここで謂う「物々交換」の観念が如何に強力であるかを物語り、(純粋な)尺度としてのカネの観念が如何に困難であるかを示しているのであるから(つまり。フツウは、交換できることを以て或る尺度に従っているとみなし、それを以てカネの尺度であることをみなすのであるが、そうではない、ということである。尺度であるとは、尺度化するということであり、傾向の転嫁である。現に価値が在ることを以て取引されるのではなく、価値化を見込んで取引されるとき、その「物」の胚胎する見込み価値を、カネに転嫁させることがただの尺度ではなく尺度化されたカネであり、カネそのものの「物」としての価値による「物々交換」を停止しているので、退蔵されないと同時に悪質なインフレも起きなかったのである。即ち、生産という発端から消費という終端という「両端」という切断面を持つ延長が、消費を回収に置き換えることで、生産(発端)と回収(終端)接続することに成功して延長は無限に伸びたのであり、カネが「物々交換」から解放されたとはこのことであって、商品取引の品目からカネを排除して退蔵されなくなったのである。)、ここで文字にする以上の発想の飛躍があったのである。
マルクスなどに江戸期の日本には必要なかったのである。
マルクスが日本に求められるようになったのは、幕末の貨幣の混乱期以降であって、カネの「物々交換」が再開したからである。

さて、経済学に疎い自分が、一生懸命理解に努めたのは、

 

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上杉が何をしたかと言えば、「萩原重秀の経済学」が消失した近代日本において、ふたたび「経済学」が発見されるまでの間に、カネを考えずに尺度化されたヒトを以て統一国家を模索したが、それは遍在して偏在せず、ヒトを退蔵させる議会を求めない態度になったのであって、普遍価値に根差す政治学を志向した態度だったと言えそうでありまた、「武士は食わねど高楊枝」を地で行く上杉は「たかがカネ」を軽侮して或る意味浮世離れした思想家であったが、「されどカネ」を重視してそれ自体の思想としての自由主義を信奉して実のところ「国家経済」を志向して、国家法人の「取締役会」(参考、『憲法改正とは何かーアメリ改憲史から考える』。)を重視した、イギリスのギルド技能者のごとき経験主義者の美濃部の後塵を拝したのである(上杉の観念的実在主義は科学主義の一歩手前にあって、無限を分割する分析性を持ったが、その実在化は記号化ではなく、コンドルセの後にありながら、その分割を比ー或る種の確率ーに置き換えるところまでは十分抽象化されなかった。政治学にとどまり、近代的な経済学に到達しなかったのである)
つまり、上杉にとって国家主権(国家法人)とはヒトの集合であり、美濃部にとって国家法人(国家主権)とは、自由(と呼ばれる実在性を与えられた、ここで謂う尺度化されたカネ)の集合だったのである。

何が言いたいか。下の図示で、「国」と「學」を尺度化して独立なパラメータとして交差させてみたが、その「原点」は福沢諭吉なのであるから、日本にあったのは実は、右翼/左翼の対以上に、福沢/反福沢の潜在的な対立であり、それは英(仏)的であるか反英(仏)として独的であるかの対立となったのである。

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結局、上杉もマルクスに近づいた一方で普通選挙を推すようになったのであるし、ところで、上杉が、同じヒトとしての女性の権利の伸張を当然に主張したのは、いかにもな話だったのである。彼にとっての関心ごとはあくまでヒトの普遍化を志向する政治学であった。


日本は世界の先頭には立てないが、先頭グループの一員であって、サッカーワールドカップならベスト8を目指しているくらいが「低位置」であるが、たまに2位から4位に立てる程度の国力が伝統的に在る。
元寇時代には世界第2位の軍事大国であったし、元禄時代には相当有数の経済大国だったのではないか(知らんけれど)。
要はそこらへんをふらふらしているものだから、なぜか「調子に乗るな」と(国内から)言われたり、どや顔したりするのであるが、それがただの好みの問題に過ぎないのは、国力があるのは仕方がないからである。
ただ今は珍しく先頭グループからも落伍しそうであるが、なんでだろう?
年寄りばかりが増えたからか? 

くそじじいとくそばばあの日本史

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