放蕩息子のたとえ話

12人の怒れる男がmasculinityと聞いて、演出としては在り得るけれど、もともとこの話は実際の経験がもとになっていて、また陪審制は「男性のもの」だったから、当時としては違和感がなかったのではないだろうかと思うのである。なにしろ、テレビドラマのハナシだ。
むしろロジカルとサイコロジカルの区別のなさにred herring(燻製にしんの虚偽。チューバッカ弁論)を逆手に取ったようで意外な感を受ける。心理対決ならば、最後に頑迷な人間が残ることに違和感がない。現代ならそのような古典的な演出の最後の損な役回りに誰もなれないだろう。それ以外の特徴が他と区別されてあってはならないからだ。

それよりも、そうか、『走れメロス』に神判という可能性があるなと気付いた。

👇持っていたが、捨ててしまった。

 弱った。

 内容は

『犯罪の訴追を受けたもの、自己の権利を主張する者たちに、中世の司祭たちが行った「神判」。肉体的苦痛を耐え抜くことにより主張の正しさが認められるという「神判」を中世ヨーロッパの中心的問題として論じた本。』

である。と言っても、ないものはない。仕方がない。
キリスト教普及以前、亡者はやたらと元気だったらしい(意訳)。

カロリング・ルネサンスを通じて、抽象的な神概念は具象的幻想を払しょくし、教区支配と『贖罪規定書』に基づき、告解によって個人主義が根付いていった、らしい。
(一応、高校の世界史で習うのは👉カロリング=ルネサンス



その後のキリスト教社会において、「自由」がテーマになる。
シラーはゲーテの親友だったらしい。

merrymehtm.com

 

1.原告となる被害者またはその友人等が、被告を裁判集会に呼び出すことで始まる。裁判長が両者を召喚するといった現代の手続とは異なる。
2.被告は、原告の主張を認めるか、否定するかを選択する。認めれば5に移行。
3.否定した場合、雪冤宣誓(せつえんせんせい、後述)により証明する。
4.雪冤宣誓に失敗した場合、もしくは雪冤宣誓が許されない場合、神判を行う。
5.雪冤宣誓・神判の結果を踏まえ、判決発見人が判決提案を行う。
6.裁判集会に集まった人々が判決提案に賛同すれば、判決として確定する。

神明裁判 - Wikipedia

雪冤宣誓
12名の仲間によって被告の人格保証を行う。被告は正直者であると誓う行為であり、証人とは異なる。

 これだけを見ると、神判のルールに則っているように見える。

「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらはわしの心に勝ったのだ。真実とは決して空虛な妄想ではなかった。どうかわしをも仲間に入れてくれまいか。どうかわしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」

走れメロスの授業に使える原作 シラーの「人質」全文 | Education LABO

シラーは何を言いたかったのか。よくわからない。

古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張し、後のロマン主義へとつながっていった。

シュトゥルム・ウント・ドラング - Wikipedia

ただし、ヴィーゼは本作を革命劇とは考えておらず、結末に「神的秩序の再発見」と「神の正義の証明」があるものと指摘している[3]。ここで述べられている「放蕩息子」テーマとは『ルカによる福音書』に見られる「愛と許しの神の教え」であり、「群盗」テーマとは「裁きと報復の神の宗教」である[3]。

群盗 - Wikipedia

なんだか徐々に近づいている感覚がある。
少なくとも、太宰の『走れメロス』では罪の告白と赦しを描いている。ふざけた奴だ。

放蕩息子のたとえ話 - Wikipedia

放蕩太宰のたとえ話ではないか。

markovproperty.hatenadiary.com