「学閥時代」を準備したもの

 

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小谷野敦
5つ星のうち3.0 難しいところだ
2021年1月18日に日本でレビュー済み
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あと最近の学生は奈良の大仏は庶民をしいたげて作ったとか言う、と書いてあるが、それは92年の学生じゃなくて20年前の学生じゃないか。 

 

執筆の群像劇が可笑しく、例えば、上杉に学生が質問した、議長の採決権と投票権について、要は、(雌雄を決する)「最後の1票」の当否であるが、これは実は語義問題であるから、「最初の1票」と「最後の1票」は同義であるべきかを問うている。

ただ、学生がなぜこんな質問をしたかを考えると、農民一揆の評決などでは最終的に議長の裁量が大きかったらしく、農民に限らず当時の一般的な社会状況では類似の経験を見聞きしたからではないかと思われ、一揆の場合、投票は、動員契機に重心が置かれ、解除契機は従属的である。このとき、この動員は交換或いは交歓に依存して、講(組織)と同じである。

例えば、ある古代の地方豪族の間で戦車(馬)の競争を趣味とするものが広がっていて、ある豪族に知恵者か痴れ者か未だ不明な者が「相手の2番の馬にはこちらの1番の馬を」云々と献策したらそれを採用すべきだろうか。つまり(豪族間に緩やかに成立していた)「共益を毀損すべきか」ということである。すなわち競争が成立するとき相互扶助の仕組みが既約だったのだ。既約済みのとき、残った夫々を見ても、錯覚するだけである。
それでも採用の意義を見出すとしたら、「投機」であって、信頼の問題である。それを見て、また献策するのであるから(相互参照)、これは探索問題であった。
そして同時に「賭け」である。したがってこれも「投票問題」であった。 

 

『法律の書生なんてものは弱いくせに、やに口が達者なもので愚かなことを長たらしく並べ立てるから、<寝る時にどんどん音がするのはおれの尻が悪いのじゃない。下宿の建築が粗末なんだ。掛ヶ合うなら下宿へ掛ヶ合え>と凹ましてや※』るわけにもゆかない。さんざん調べただろうが、どちらの例もあったのだろう。比較法学であるが、そもそもそのメカニズムを検証する知的制度がなかったのであるからして、別の知的制度に依っているとみてよいだろう。
※P37https://www.jstage.jst.go.jp/article/kumako/11/0/11_33/_pdf/-char/ja

日本思想史における問答体の系譜:丸山真男の「三酔人経綸問答」論

 

 

 

1899年(明治32年)にドイツやフランス、イギリスに留学し[10]、翌1900年(明治33年)に東京帝国大学助教授、1902年(明治35年)に同教授となり比較法制史の講座を担任する

美濃部達吉 - Wikipedia

たった1年しか留学していないうえに、3か国も回っているのであった。移動だけでも大変であるし、師匠の一木も苦労した言語についてはどうしたのだろう? 

帝国大学理科大学(現在の東京大学理学部)数学科へ進み、卒業後にドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し、多大な影響を受ける。

高木貞治 - Wikipedia

高木貞治は美濃部の2つ年下である。2つ年下だが、帝大卒業は同じ明治30(1897)年7月であり、ちなみに入学も同じ明治27(1894)年ー9月?高木はそうだが、美濃部は知らない、卒業席次も同じ2番だったりする。 ちなみに、入学時は唯一の帝国大学で、卒業時には東京帝国大学になっていた。

官報. 1897年07月13日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

数学科一番の人は林鶴一というひとで、こちらは美濃部と同じ年齢であるが、帝大入学は美濃部、高木より早かったらしい(高木と同じ3高出身だが、高木と同じ年に帝大に入学した8名のうちには入っていないらしく、この8名からは2番の高木と3番の吉江の2名しか3年で卒業できなかったということであった。美濃部も3年で帝大をストレートに卒業したらしい)。

林鶴一 - Wikipedia

政治学科一番の人は美濃部の妹と結婚した人で、

南新吾 (第4版) - 『人事興信録』データベース

南が商務官を退官して台湾銀行の理事に就任した3か月後に

1912年9月11日、中川は文部省を依願退職し、杉山茂丸の計らいで台湾銀行副頭取に就任する[13]。これはいわゆる「天下り」で、当時は誰にとっても羨望の天下りポストであった。

中川小十郎 - Wikipedia

中川は西園寺公望の「懐刀」と言われた人らしい。
明治30年台湾銀行設立の年だったのだ。
或いは、南は原敬と「天津人脈」でつながるかもしれないが、それはよくわからない(南は、三井合名会社で天津に赴任、原は天津領事だったことがあったが、時期が随分異なる。ただ「人脈」となるとわからない)。

ところで、原敬は、第25代(明治39:1906-明治40:1908)、第27代(明治44:1911-大正元1912)、第29代(大正2:1913-大正3:1914)の内務大臣を務めていた。

内務大臣時代、藩閥によって任命された当時の都道府県知事を集めてテストを実施し、東京帝国大学卒の学歴を持つエリートに変えていった。

原敬 - Wikipedia

1912年に明治天皇崩御。次の年から「大正政変」で、このころに、上杉と美濃部の「天皇機関説論争」があった。
西園寺は公家出身だが伊藤博文の後継者で在り、それは伊藤巳代治が枢密院の「ドン」だったころだろうか。 

桂園時代を「内政面・外政面とも、戦前期日本における相対的安定期であった」とし、その体制の特質として桂率いる陸軍・官僚・貴族院と西園寺率いる政友会との相互補完関係を挙げている。

桂園時代 - Wikipedia

そうして、「大正デモクラシー」の時代になって、一方で原敬は首相となり、また、一方で「美濃部革命」は成就する。「藩閥時代」が終わり「学閥時代」の到来である。原敬は大学を大分増やしたのだ。これは次の「軍閥時代」の準備期間でもあった。
ちなみに、原敬は、司法省法学校(後の帝大法科大学仏法科)を2番で合格したらしい。卒業はしていない。放校処分にあった。原はそうか、一応仏蘭西学派か。

さて、ハナシは戻って。
高木貞治は3年間のドイツ留学を命じられた。
官報. 1898年06月30日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ちなみに、筧克彦は行政法研究のため、やはり3年間のドイツ留学を命じられている。
興味深いのは志田鉀太郎というヒトで、この人は初代東京商業学校(一橋大学)の初代商法教授らしくて、やはり3年間のドイツ並びにフランス留学をしている。商法には当初フランスの影響がにじむ。でも実は、明治27(1894)年7月に、帝国大学法科大学法律学科(英米法撰修)を卒業していて、ドイツでもフランスでもなかったりした。
ちなみに、このとき、穂積八束は博士で、一木徳次郎は博士でない。
官報. 1894年07月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
志田は「会社及び保険の法理」の研究で大学院への入学を許可された
官報. 1894年08月27日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
筧は「行政法(特に教育行政法)」、立は「経済行政に関する法規」、高木は「代数学及び広義に於ける「アリスメチック」」などであった。KS剛の本多光太郎も同時期進学して「光学及び電気磁気学」だったりする。意外なのか意外でないのか、さっぱりわからない。
官報. 1897年08月11日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
昭和になってからも(岡潔の例。)、東京からベルリンなら、1月半かかったのであって、往復だと3か月だ。
ということは、美濃部の1年の留学なら、残り9か月で三か国回ることとなる。算術平均してよいかわからないが、1国3か月だ。高木の例によるなら、1月半は「お試し期間」なので(高木の当初通ったドイツの大学では聴講費が徴収されない無料期間だったらしい。)、基本的な講義の紹介が終わった残りの1月半が本研究に係る「勝負の期間」と言えるだろうか。語学が拙い中で、何冊の本が読め、教授に質問でき研究を深めることができただろう?

高木らは大学院で研究してからさらに3年間の留学なのである。高木は留学しても研究室にこもって本を読むだけだから大して違いはないということで、ベルリン大学からゲッチンゲン大学ヒルベルトのもとへゆくのだが、それでも1年半はベルリンに居てドイツでの生活に慣れることができた。
その後の1年半で「彼我50年の差を埋める」ことに費やしたのだが、ヒルベルトからは研究のヒントをもらったりして充実していたらしい。ゲッチンゲンが数学の世界の中心だったというのは大げさだろうか。研究目的がしっかりしており、研究を積み重ねてきていたから認められたのであったーそれを見極めるための口頭試問をヒルベルトからちょくちょく受けていたらしい。
ちなみに師匠の一木だって、3年間留学しているのであった。「3年」はなかなか意義深い。「3ヶ月」は当面の研究動向の「報告」くらいになるのではなかろうか?

ドイツ学派が急速に日本で盛り上がったのは、ドイツの世界戦略もあったのだろうか?イェリネックも弟子を育て、上杉はその恩恵を受けているが、ケルゼンなんかさらに積極的に弟子を教育している。日本の学者も大分ケルゼンから薫陶を受けたみたいだ。 

 

やむなく役人生活に入ったもののなじめず、学究への志も止みがたくいたところ、恩師・一木から大学で比較法制史講座の担任者となることを打診される。美濃部はこの話を受け、一木の推薦を得て大学院に進んだ。もっとも、欧州留学までは内務省試補という名目で、内務省から手当を受けていた(前掲高見)。

こうういった経緯は一木に近かったろうか。

なお、美濃部は憲法学においてゲオルグ・イェリネックの影響を極めて強く受けたことは美濃部自身が認めるところであるが、美濃部の留学の名目が担当講座の比較法制史の研究であったので、イェリネックの講義を聞くことができなかったことを後年まで後悔した(ゲオルグ・イェリネック著・美濃部達吉訳『人権宣言論他三論』(日本評論社、1946年)はしがき) 

わからなところは想像で補っていたのではないだろうか。それならば、なるほど「日本的」になっても不思議ではない。 

官報. 1898年08月15日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
官報. 1899年05月31日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
比較法制史の前任は兼担だったようで、文部省に帰任した。
官報. 1902年10月28日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
ここからは早いか。博士になった
官報. 1903年08月21日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

天皇機関説は、1900年代から1935年頃までの30年余りにわたって、憲法学の通説とされ、政治運営の基礎的理論とされた学説である

天皇機関説 - Wikipedia

どうにも学生に評判が悪かった方が「本格派」で、ウケがよかったのは「促成栽培」だったきらいがある。