それは自然法ではない

 

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 P103から「◆近代法思想の展開」ということで法実証主義を成立させたオースチン、歴史法学を展開し『身分から契約』を志向したメイン、「(近代)法律学」によって哲学から法学を分離したサヴィニーに1章、その後、マルクス主義法学について1章、そのあとフランス、アメリカの法学を紹介した後、ケルゼンに1章割いている。ちなみに、ケルゼンはマルクス主義批判も行っている。

マルクス主義法学までにすでに、「幾何的」「科学」「歴史」或いは「生活」とのワードが出てくる。特に「歴史(法学)」がドイツにおける法の近代化に大きな影響をもったらしい。「古い」ことにこだわるのではなく、「近代的」な「新しい」ことを始める為に「歴史」が謂われたのだ。

残念ながら社会進化論については触れられていないが、おそらく神ではない何かを探していたのだろう。

オースチンベンサム同様、十七、十八世紀の自然法論、自然権論、社会契約説を否定している。そして実定法一元論をとることによって近代法学の発展の基礎を提供した。
また法と道徳ないし「在る法」と「在るべき法」を峻別し、両者の間には論理的・必然的関係はないとした。つまり、法(つまり「在る法」)は道徳や「在るべき法」とは別のものであるとし、法の形式的妥当性の問題と道徳的正・不正の問題とを区別したのである.

P105 第6章 分析法学から歴史法学へ
Ⅰ法実証主義の成立と分析法学
2法実証主義者としてのオースチン
法思想史[第2版]/有斐閣 

「長い前置き」ではこれをどう理解すべきか言うために、無駄に言葉を費やした。
形式的に論証できれば簡単だが。
結論を繰り返すと、法実証主義は、一元論の自然法論と対峙して(ここで否定されるのは、「流出論」)、二元論であり、それは形式操作ゆえの再現性を企図することであって存在規定とは独立の行為論である。一言でいうと、述語の選択は主体の存在規定に依存しない(主体は主語に記号化されて述語に従属する機能だけを残し、主体の意味付けは外部化された。法実証がパラドックスに気づけなかったのは、あくまで主体論/行為論だからである)。述語が主体に不可分に一体化したことかどうか、述語自体が(自由な)操作対象かを問うたのであった。存在規定と対峙したロジックであるから、前段に「存在証明」がある。
結局、無限/有限をどこで扱うかの違いであって、だから、その後、実証主義は当然に、「根本規範」という仮想的な法を必要とする。結局は、どこかで「アンセルムス」を呼び出さないわけにはゆかない。歴史上本当に画期を為したのはほんの数人で、アンセルムスはそのうちの一人であった。あとはヘーゲルのように「何か新しいことを言いたい」と煩悶とするのであった。
これが構成論理であるが、上の言明は異なっている。
それが説明論理の性格であることを長々と無駄におしゃべりしてしまったのであった。
エレガントではない。

むしろ大事なのは、その背景であって、新しく創設されたロンドン大学の初代法理学教授がオースチンであった。特定社会の実定法体系を研究する「法理学」と成熟した社会に共通にみられる実定法体系を『価値判断をまじえずに分析する理論的』(P105同)な研究をする「立法科学」に分け、彼は「法理学」を講義したそうである。後者が「在るべき法」なわけだが、それが上の言明ではどうなっているか。

これをこのまま、、、、理解しろという方が無理である。

オースチンの関心は立法の科学ではなく、法理学、とくに一般的法理学にあった。』(P105同)
これである。ここから入らないからおかしな説明になる。
『そして一般的法理学はたんなる法の基礎理論的研究ではなく、イギリスにおける法典化を成功させるための準備作業としてもとらえられていた。つまり一般法理学は、イギリス法を整備し、法典化するための明晰な諸概念、諸区分、科学的な分類方法を提供すると考えられていた』(P105同)

この「そして」は「朝日論法」で、単純並列で事実性を強調しようとするが、かえってわかりづらい。

オースチンの関心が、立法の科学ではなく、法理学、とくに一般的法理学にあったのは、一般的法理学を、たんなる法の基礎理論的研究ではなく、イギリス法を整備し、法典化する構想と考えたためで、それに明晰な諸概念、諸区分、科学的な分類方法を提供する意欲があった。」
ではダメなのだろうか?

それにしてもどちらが「科学」であると言いたいのか、と訝しく思うが、要はそういう事情、、、、、、を言い訳していたのであった。その言い訳をそのまま、、、、書いてどうするのか。

J・C・D・クラーク(英語版)の1985年の著作によると、1828年以前のイングランドではほとんどの人が王権神授説、世襲貴族の正当性、聖公会の権利と特権を信じていたが、1828年から1829年カトリック解放で聖公会の優越性という1つの柱が突如崩れてしまった。クラークによると、「社会秩序全体が崩れた。[...]その時点で失ったことは[...]ただの憲法の1条ではなく、旧来のエリート層の文化ヘゲモニーという世界観である」という[17]。クラークの意見は学者の間で広く議論されたが[18]、1828年から1832年という時期の前後の連続性を認める歴史学者がほとんどだったという

1829年ローマ・カトリック信徒救済法 - Wikipedia

オースチンが教授に就任した1923年は、ナポレオン戦争に勝利した1815年から8年後で、何が起きていたかというと、保守党であるトーリー党が政権を担ってはいたが、次の年にアーサーウェリントンが首相に就任するとより短いスパンの政権交代が起こるようになったのであって、社会格差が拡大したことによる社会の不安定化を危惧して考案されたトーリー・デモクラシーはもう少しあとであった。

トーリー・デモクラシー - Wikipedia

 ともあれ、その後オースチンはパッとせず、メインの歴史法学から批判を受けるが、『十九世紀のイギリス法理学はこのようにオースチンの分析法学とメインの歴史法学によって基礎が与えられ、その後、大学法学教育の中で進展してゆく』(同P112)
ちなみに、オースチンは、独逸学派であった。独逸で勉強してきたのである。だから、どっちつかずのわけのわからんことを言い、人気もなかったのではないか。
なんか、どっかで聞いたようなハナシであった。
ただ、『その構想自体はドイツの一般法学に半年ほど先んじたものである。』(同P105)と評価されている。
やっぱり「構想」じゃないか。