未稿

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(自粛)

①社会観
憲法秩序を(その行為の実現によって)遂行的に肯定するような社会人となる、共通の規範に服し協同行為の可能な、自己並びに他者を要請し、 の自己保存化と  を再行程化してゆく社会
(尚、産業社会や任意のレベルの市民社会※は、他の条件付き社会と同様に、この(一般)社会の内部にある。)※「任意のレベルにある」とは、(「完全」な市民社会を含み)どの可能な市民社会も、この内部にあることを言う、論理技術である

近代社会とは、係る、予期と計画を可能とする測定可能性を持ち、至高の権威を、その構成単位である、個人とそれによる社会自体が担う、社会主義社会或いは(その端緒をすでに担っているが、いまだ前社会主義社会としての)社会主義社会の幼体社会である(ただし、それは、認識の便宜上採用した進歩主義的観想で(何かを判断し、語るにはそのための枠組みが必要であるが、その枠組みが完全にいつでも正しいわけではないため、二重に否定的に語られる機序を持つ。)、必ずそれ以上に進歩しなければならないわけではなく、そこにとどまっても良い)。

②社会人観
独立して、完全に、自己の権利義務を遂行できる能力、すなわち、意思能力と行為能力を適切に備え、そのための適切な事理弁識能力とその能力で以て社会で適正にふるまうために必要となる基本的な知識を有する者で、自己の責任として  を内面化できる者が「社会人」の一般的モデルとして、中心に据えられる(したがて、その可能な能力の分布が、「独立性」「完全性」への社会の能力の の当為の分布との対比が成る)、社会的利益の主張の帰属先と社会的不利益の引き受けの宛先として、他者と区別されるために、名前を呼ばれる者(そのための識別記号としての「名」を持つことが義務付けられる者ー一方で、その程度にしか「名」は(それら能力の反映としてしか)社会からは必要とされないため、「名」を利用できる自由を内在する(根源未規定な)者でもある)

③人間観
行為によって存在が規定されず、存在が行為の源泉となる、無限の価値を有する存在で、したがって、社会にその能力が実現可能な領域で反映されるが、《存在そのもの》はどこにも反映され得ない、内面の規定不能性により、外形的に数えられることを以て  
 に対して代替する   ・・・
(未成年とその他、意志並びに行為の実現に他者の補助を必要とする)

④世界観
時間と空間によって行為が制限され、その行為の制限が予期を与える世界(そのように原単位を持ち、行為を通じて、測定可能性が実現可能性の指標となる、世界)

④教育観


したがって、社会政策としての教育で、特に今問題とされるのは、マス教育(の在り様)であり、
マス教育とは、時間的、空間的な技術制約を持ち(以下のような、「時間(駒)」と「空間(基点)」を与えられ、測られる一方で、それぞれ必要それされるが相互の価値の比較の困難な  をリンク付けして一つの環とすることで内部抑制(内部に閉じること)を達成し、それを以て  技術的に測定(序列として比較)可能な「人格」(存在の未規定性により、本義的には測定不可能であるが、内部に閉じることで、それを可能であるとして、計画可能なこととして命令した))
❶同時
❷一緒
❸全人格
➍ (技術制約ー操作可能性。経済合理性を含む→予算制約と社会利益の最大化)

したがって、必要とされる社会政策の目標は以下の通り
市民社会の実現とそのために義務教育もしくはそれに相当する教育の与えられる内容で到達されるべき  。「多様な社会」とは)


ゆとり教育」って、支配の外在と内在に再考を促すことであったのであって、学校の能力の限界が指摘されてから、学校が社会の一プレイヤーとして相対化され「学校外」に期待が寄せられた時期でもあったし、実は一方で「忙しすぎる子供たち」ということが指摘される現実が当時あったのであって、そういった社会世相を反映して、一面で学校を諦め、一面で学校に期待するところがあったのだけれど、こういった識者然として傲慢にふるまう者がまったく理解せずに潰してしまったんだよね(意味不明な(期待通り学力を測定するには不完全であることが(まさに、能力測定は見果てぬ夢で、できることはせいぜい言い換えることぐらいであるため、以前に比べてマシになるのは、その時代に好ましいと受け取られる「ファッションセンス」くらいである。だから逆に、「全人格測定」という円環的な内部抑制技術は有効で、「悪魔的」な万能性を発揮している、ともいえる。社会がそれによって提示される能力を真に望んでいるとは限らないにも関わらず。これは学歴のシグナル効果を考えると興味深い事柄である。)、或る意味当然に、指摘されることとなった)PISAの結果を以て)

複数の文脈を持つのが当たり前、ということに気づけば、「日本会議」も「金子みすゞ(本人とは無関係に、それを社会提言にしようとする人たち)」もこのような主張も、同じ前提を共有していることがわかるんだけれど。