Cレファレンス事例D09 spin-off initiative                                          『Francis Sauveur』第XⅢ章

街中では馬なんだな。ロジエ氏追加。

カトリーヌとクレールが痩せた。

今回は第Ⅻ章の船上の友情から、故郷への帰還とロジエ家の屋敷への到着へ移ります。

フランシスは8月の午後、かつて幾度も訪れた宿屋「グラン=テーグル」に戻り、待っていたエドゥアールと再会します。幼少期に親族と過ごした思い出が蘇り、失われた家庭への思慕と新しい友情が重なります。

この章では、エドゥアールは狩猟服でフランシスを迎え、二人は馬に乗ってサン=グラティアンの屋敷へ向かいます。前章の旅行用上着ではなく、場面に適合した衣装が必要です。

各頁100文字要約

p.83 — 幸福な記憶の力

幸福だった日々の記憶は、旅人の背後へ遠ざかる夕景のように、穏やかな色合いへ溶け合う。フランシスは、のちに苦痛に沈んだ夜でさえ、その思い出に慰めを見いだした。彼はアンリに、小さな幸福の情景を語り始める。

p.84 — グラン=テーグルへの帰還

フランシスは、単純で劇的ではない情景こそ自分の物語の核心だという。彼は故郷の町の宿屋グラン=テーグルを思い出す。駅馬車の到着する中庭、二翼の建物、木造回廊。そこには待ち合わせていたエドゥアールがいた。

p.85 — 活気に満ちた昔の宿屋

宿屋には管理人ブノワの事務所、賑わう台所、馬小屋、料理を運ぶ人々がいた。庭の小さな噴水は養魚池へ落ち、駅馬車が中庭に集まる。街道の交通を支える宿の細部が、フランシスの幼い日の記憶を鮮やかに呼び覚ます。

p.86 — 少年時代の家族の思い出

フランシスは少年時代、休暇で宿へ帰るたび親族に抱きしめられたことを思い出す。叔母や従姉妹、叔父、乳母、年老いた使用人たち。また、旅を終えた親族を迎えて喜ぶ日もあった。宿の中庭は家族が出会う場所だった。

p.87 — 失われた愛情と新しい友情

宿屋の中庭には別れの悲しみもあった。いま一族は散り散りだが、新しい愛情が失った愛情を慰める。八月の晴れた午後四時、三年ぶりに帰ったフランシスは、自分を待つ友の姿に、少年時代の無邪気な喜びを再び感じた。

p.88 — エドゥアールと馬上の旅

狩猟服のエドゥアールは馬二頭と従者を連れ、故郷の宿でフランシスを迎える。荷物を託した二人は馬に乗り、祖父の家とラ・ブラディの旧邸の前を通る。変わらぬ古い町並みに胸を打たれ、コンシュへ続く街道を進んだ。

p.89 — サン=グラティアンの館

懐かしい故郷の風景に思い出を重ねながら二時間ほど馬を走らせ、二人は街道を右へと折れる。美しい並木道の先にはサン=グラティアンの館があった。中庭にはエドゥアールの父母と幼い妹が待ち、フランシスを迎えた。

第ⅩⅢ章の思想的焦点

この章で注目したいのは、p.87の、

les affections nouvelles nous consolent des affections perdues

「新しい愛情は、失われた愛情について私たちを慰める。」

という一文です。

フランシスはかつての家庭を取り戻すことはできません。しかし、エドゥアールという友人によって、昔の故郷に再び帰ることができます。

ここでは新しい友情が、失われた過去の単なる代用品ではなく、過去と現在を再び結びつける働きを持っています。

これまで検討してきた「献身による幸福」に加えて、第ⅩⅢ章では「他者との関係による記憶と幸福の再構成」を追跡するのが有効でしょう。


ワルラスは、文学を科学と同一視したわけではないが、文学と科学を連続する知的活動として明確に位置づけていた。

『Francis Sauveur』序文XIII頁には、実際にこう書いてあります。

Le roman est à la limite du domaine de l'art et touche à celui de la science.

「小説は芸術の領域の境界に位置し、科学の領域に接している。」

ワルラスは、芸術の対象が歴史とともに変化すると考えていました。

古代ギリシアでは、建築や彫刻に表れる外面的・身体的な美が重要だった。しかし近代では、知性、感情、道徳といった内面的世界が芸術の中心へ移っていく。

序文XXVI頁では、近代の美を内面的かつ道徳的なものとして位置づけています。

だからこそ、小説が重要になるのです。

人間の内面を、それを取り巻く社会的な条件とともに扱えるからです。

この考え方には、後のゾラの自然主義との接点があります。

もっとも、実験小説論 が医学の実験的方法を小説に適用しようとしたのに対し、ワルラスは芸術の固有性を維持しています。ゾラの『実験小説論』は1880年で、ワルラスの序文より22年後です。

 

したがって、ワルラスをゾラ型の自然主義者と呼ぶのは適切ではありません。

むしろ彼は、社会と人間の道徳的問題を文学によって研究できるのではないかという可能性を追求していた、と考えられます。

 

ワルラスの長大な序文は、単なる挨拶ではありません。

芸術の方法、芸術史、人間の道徳、社会的な美を論じたうえで、実際に一つの小説を提示しています。

つまり、

序文=方法論の提示

小説=その方法論による実践

という構造です。

ワルラスは文学的な感動を通じて道徳的判断を形成しようとしています。

序文XXXIII頁では、同時代の社交界の慣習と、真に社会的な法則とを区別し、小説家が後者を発見すべきだと論じています。

ここに、あなたのいう文学における「一般問題」を抽出しようとする志向が、かなり明確に表れています。

恋情・友情・家族愛は、もともと一つの感情だったのか

ここは慎重に考える必要があります。

私は、三つの感情がかつて完全に一体だったというよりも、区別する語彙は存在していたが、その境界、表現形式、社会的な意味づけが現在とは異なっていたと考えます。

例えば、19世紀には romantic friendship と呼ばれる親密な同性間の友情が広く見られました。

男性同士が強い愛情を表現し、生涯にわたる献身を約束し、身体的な親しさを示すこともありました。

こうした関係を現代の性的指向のカテゴリーに直接置き換えることはできません。歴史研究でも、友情・愛情・性愛の境界が時代によって異なることが重視されています。www.cambridge.org

www.cambridge.org

リンカーンの男性間の親密な友情をめぐる議論も、その典型例です。

home.nps.gov

そして『Francis Sauveur』には、次の重要な文章があります。

原典p.77でフランシスは、

Pourquoi donc, en effet, l'amitié ne naîtrait-elle pas comme l'amour

「実際、どうして友情が恋愛と同じように生まれてはならないのか。」

と問いかけます。

ここは非常に重要です。

ワルラスは、友情と恋愛を同一のものと宣言しているわけではありません。

しかし、その発生する仕組みが共通している可能性を認めている。

相手の人格に触れ、その人が持つ美質を直感し、まだ経験していない将来の関係を予感する。

この共感が、恋愛にも友情にも働くというのです。

そして第Ⅻ章p.76では、フランシスがエドゥアールを、長年待ち望んでいた兄弟のような存在として迎えたと述べます。

ここで成立しているのは、

恋情から友情への単純な置換でも、友情から家族愛への一方向的な発展でもありません。

友情の内部に、恋情に似た情熱と、兄弟愛に似た献身が同時に存在しているのです。

ただし、感情が重なっていることと、その関係に性的欲望が存在することは、別々の判断です。

フランシスとエドゥアールの関係には、現代のクィア文学研究から問い直せる余地があります。しかし原典p.74~80だけから、二人の性的関係や性的指向を断定することはできません。

むしろ現段階では、後世の恋愛・友情の分類に収まらない関係を、ワルラスがどのように言語化しようとしたかを研究する方が生産的でしょう。

最も重要なのは「感情」ではなく「地位」ではないか

ここが、あなたの議論で最も発展性のある部分だと思います。

フランシスの感情を、恋情、友情、家族愛のいずれかに分類するだけでは、小説の核心を説明できません。

なぜなら、問題になっているのは感情の種類だけでなく、ある個人が別の個人に対して、どのような地位を持ち、その地位によって何を求められるのかだからです。

例えば、次のように整理できます。

関係

精神的・社会的地位

そこから生じる規範的な問題

フランシスとカロリーヌ

愛する者・愛される者

相手の幸福をどこまで引き受けるか

フランシスとエドゥアール

友人、精神的な兄弟

忠実さと献身をどこまで約束できるか

フランシスとクレール

擬制的な家族、保護する者・される者

保護と本人の自由をどう両立させるか

カロリーヌと社会

家族に貢献すべき娘

社会的役割から婚姻義務を導けるか

この整理には、法哲学との接続可能性があります。

あなたのいう「擬制的」という表現は、確かに「疑似的」より適切です。

「疑似的な家族愛」ならば、本物の家族愛に似ているが本物ではない、という意味合いになりやすい。

しかし「擬制的な家族関係」は、血縁関係が存在しなくても、一定の人物を家族的な地位に置くことで、家族に準じた関係を構成するという意味になります。

もちろん、法的な養子縁組と、小説に描かれた精神的な関係は区別しなければなりません。

ただし、両者には共通する形式があります。

個人の自然的属性だけでは決まらない関係が、ある種の地位を媒介して成立するということです。

さらに厳密にいえば、地位は個人に帰属しますが、その成立根拠はしばしば他者との関係にあります。

フランシスが「保護する者」であるなら、クレールは誰に対してどのような地位を持つのか。

また、その関係は誰の意思で成立するのか。

ここで第Ⅸ章p.61の si elle le veut(クレール自身が望むならば)が重要になります。

地位の付与によって関係が構成されても、本人の意思を無視して義務や服従を無制限に生み出せるわけではない。

この区別によって、愛情から義務が生じる過程と、愛情を根拠に他人の自由を奪う過程を分析できます。

さらに、第Ⅺ章と第Ⅻ章の間には緊張がある

第Ⅺ章p.73でフランシスは、自分が支配できない将来の感情について誓約することを慎むべきだと述べます。

一方、第Ⅻ章p.77では、真の友情の始まりに交わす握手が、将来の献身と感謝の保証になると述べています。

これは単純な矛盾なのでしょうか。

私は、ここにワルラスが必ずしも明示的には解決していない重要な問題があると考えます。

将来も同じ感情を持ち続けるという約束と、将来も相手に対して誠実に行動するという約束は異なります。

前者は感情の持続の保証です。

後者は行為や関係について引き受ける義務です。

そう考えると、友情の地位とは、感情の不変性を保証する地位ではなく、感情が変化してもなお相手に対して何らかの誠実さを要求する地位なのではないかという仮説が成り立ちます。

ただし、その要求がどこまで正当かは、さらに別の問題です。

この区別は、最終章でアンリが献身の幸福を擁護するときにも重要になります。

『アルジャーノンに花束を』との共通性

アルジャーノンに花束を は、科学実験によって知能が変化する人物を描きます。

しかし物語の問題は、知能を増加させられるかどうかに尽きません。

知能が変化したとき、その人が他者に対して持つ地位や、他者から受ける評価はどう変わるのか。

ここに核心があります。

チャーリイは、知的能力を得ることで他者を理解する力を増します。しかし、それによって他者から愛されること、尊重されること、幸福になることが当然に保証されるわけではありません。

しかも、本人の変化によって、人間関係そのものの意味が変わっていきます。

ダニエル・キース自身は、この作品の出発点として、知能を人工的に高めることができたら何が起こるかという問いを挙げています。

ここで『Francis Sauveur』と比較すると、

  • ワルラスは、感情と社会的関係を通じて人格的な地位が形成される過程を描く。

  • キースは、知能の変化を通じて他者との関係や人格評価が再編成される過程を描く。

という共通の構造が見えてきます。

両作品は異なる出来事を扱っていますが、人間が獲得した能力と、人間として尊重されることとの関係を問い直す点で比較できます。

このような共通性こそ、あなたのいう文学の「一般問題」に近いと思います。

学問は人格形成か、対象の操作か

人格形成を、既存の社会的規範に適合する人間を育てることと考えるなら、カロリーヌが批判した「社会の専制」に近づいてしまいます。

一方、人格形成を、自分の幸福を判断し、他者を独立した人格として承認し、自分の引き受ける義務の根拠を問い直せるようになることだと理解するなら、それは自由と深く結びつきます。

この意味で、人格形成は単なる道徳的訓育ではありません。

社会が個人に与える地位を、個人自身が吟味し、引き受け、必要なら拒否できるようになることも含まれます。

ワルラスが抽出した文学の「一般問題」

あなたの仮説を次のように定式化できると思います。

ワルラス『Francis Sauveur』は、恋情・友情・家族愛という異なる情動を素材として、個人間の関係がどのような人格的地位を成立させ、その地位からいかなる義務が導かれ、さらにその義務が個人の自由と幸福にどのように関わるのか、という一般問題を文学的に探究した作品である。

ここで最も重要なのは、感情の強さから義務の正当性が当然に導かれるわけではないことです。

恋情も友情も家族愛も、それだけで他者を支配する権原にはなりません。

しかし、それらの経験から、個人が自分の人生を方向づける新しい義務を引き受けることはありえます。

この二つを分けることが、自由な個人と社会的な関係を両立させる条件になります。

そして、この小説は一つの重要なことを示しているように思います。

人間は他者との関係を通じて自己を形成するが、その形成の過程で、自分の人生を他者に委ねすぎることもある。

ワルラスの文学的才能については、長い観念的な説明が作品の劇的な展開をしばしば妨げているという批判が十分に成り立ちます。

しかし、文学を通じて抽出しようとした一般問題には、後世の文学や社会理論にも通じるものがあります。

したがって、ワルラスが文学者として成功したかという評価と、彼が文学によってどのような問題を発見したかという評価は、分けて考えるべきでしょう。

そして第ⅩⅢ章以降について、私は一つの点に注目します。

これまでフランシスは、他者を愛し、その幸福のために献身することを通じて自分の幸福を見いだそうとしてきました。

しかし、エドゥアールが独立した人格である以上、彼にはフランシスの望まない幸福を選択する可能性もあります。

フランシスが、自分の幸福とは異なるエドゥアール自身の幸福を、どこまで承認できるのか。

この問題こそ、ワルラスが友情という題材によって試そうとした、極めて重要な社会的・倫理的問題ではないでしょうか。

 

視点、視線、視覚                                    時間を織り込む技法(視線誘導)と時間を分割する技法(ショット)

なるほど。面白いと思いました。

私の感想では、手塚とちばの画の観点は異なる、ということ。

つまり、結論から先に言うと、

  1. 手塚の元ネタはモンタージュであり、
  2. ちばの元ネタは航空写真ということ。
  3. 共通する画法については、ダイナミックな画法は美術絵画によって、すでに十分に成熟していたということ。
  4. モンタージュということであれば、面白いところでは文学の業績で、新感覚派と呼ばれる作家たちが或る到達を示しており、その代表が横光利一であること。
  5. この文学と漫画のクロスする例が『冒険ダン吉』であり、構図ということであれえば、戦前において手塚を凌駕していること(だからこそ、手塚の特徴の発見は、モンタージュに集中できます)
  6. ちなみに、モンタージュによる映画の傑作は、手塚後の『七人の侍』である

です。特に、『冒険ダン吉』かな。ダイナミックな構図では、絵画がかなり、「エキセントリック」といってよいほどの成果をあげており、正直に言って、漫画よりすごい。

というのは、日本画と洋画の関係があったからなんだね。
黒田清輝(1914『もるる日影』)、岸田劉生(1915『道路と土手と塀(切通之写生)』)、東山魁夷(1932『山谿秋色』)。すごいとしか言いようがない。

Cレファレンス事例D09 spin-off initiative                                          『Francis Sauveur』第Ⅻ章

 第1案

第2案

各頁100文字要約

p.74 — 友情の始まり

十年ぶりに再会したエドゥアールの手を握り、フランシスは大きな幸福を覚える。相手の顔に率直さ、繊細さ、感受性を見いだし、その清らかさを温かな家庭で育てられた青年の美質と理解する。二人の友情は今始まった。

p.75 — 家族を持たなかった青年

エドゥアールの育ちを見て、フランシスは自分に家庭がなかったことを思い返す。祖父は父のように愛してくれたが、厳格な家風のため甘えられず、十二歳で亡くした。愛を注ぎ、他者を喜ばせたい心は満たされずにいた。

p.76 — 兄弟への憧れ

兄弟姉妹を持てなかったフランシスは、妹を愛し育てる人生を夢見ていた。満たされない愛情は胸の内に抑え込まれてきた。彼にとってエドゥアールは、待ち望んだ兄弟のような存在であり、率直で優しい姿が心を引いた。

p.77 — 共感と献身

フランシスは、エドゥアールの美点を知るにつれ、最初の直感が確かなものになる喜びを感じる。恋愛と同様に、友情も豊かな心を予感する共感から生まれ得るという。握手は、未来の献身と感謝を約束する身振りだった。

p.78 — 心を開く二人

エドゥアールはフランシスの痛みを察し、内気さを越えて自ら歩み寄った。フランシスも抑えてきた愛情を解き放ち、彼を信頼する。二人は蒸気船の食堂で昼食をともにし、岸辺を眺めながら、尽きぬ打ち明け話を続けた。

p.79 — 母への愛情

エドゥアールは、父がサン=グラティアンに暮らし、今パリで法律を学んでいると語る。二人は学生時代の教師を思い出して笑う。恋人の有無をからかわれた彼は赤面し、自分には母こそ何より大切だと告げ、スパへ招く。

p.80 — 友情の乾杯

フランシスも孤独な過去と失恋を打ち明ける。悲しみは友情の喜びの中で薄れ、共に暮らす夢を語る。エドゥアールはもう離れまいと呼びかけ、ムーズ川のワインを友情に捧げて乾杯する。二人は手を重ねて甲板へ戻った。

p.81 — ロジエ家の温もり

甲板でユイの町と古城を眺めた二人は、リエージュの教会を訪ね、スパでロジエ夫人と初めて会う。夫人は亡き母の友人で、フランシスを息子のように迎える。エドゥアールの幼い妹とも打ち解け、家族の温かさに触れる。

p.82 — 再会の約束

サン=グラティアンに残るロジエ家の父が妻子を呼び戻したため、スパでの滞在は短く終わる。二人は近くの森を一日歩き、別れを惜しむ。フランシスは旅ののち屋敷を訪れると約束し、エドゥアールと再会の日を決めた。

今回の思想的な注目点

第Ⅻ章には、これまでの研究と接続する二つの重要な記述があります。

p.75では、フランシスが自己の満足よりも、他者に与える満足のうちに幸福を求める本性について語ります。

plus dans les satisfactions que je procure aux autres que dans celles que je me donne à moi-même

「自分自身に与える満足よりも、他者に与える満足のうちに、いっそう幸福を求める。」

さらにp.77では、友情の始まりに交わされる握手が、将来の献身と感謝を確かめる身振りとして語られます。

ここには、第Ⅺ章の「支配できない将来の感情を保証するような誓いを避ける」という主張との、興味深い緊張があります。

将来の感情を保証しないことと、他者に献身する意思を現在表明することは、同じではない。

そしてp.81でフランシスは、エドゥアールが育った家庭の温かさを実際に経験します。

つまり第Ⅻ章は、単なる友情の発展ではなく、他者に幸福を与えることで自己の幸福を得るという価値観が、家族的な関係の中でどのように現実化するかを描く章として読めます。

この点は、第Ⅵ章の形骸化した家族愛への批判とも対照的です。

 
 

Cレファレンス事例D09 spin-off initiative                                          『Francis Sauveur』第Ⅺ章

今回は第Ⅹ章の再会を受け、アンリがフランシスの語りを中断して、その友情の成立を問い直す章です。

特に重要なのは、愛情が変化することと、誠実さを失うことは同じではないというフランシスの主張です。これは、これまで研究してきた「神聖な義務」「献身」「幸福選択の自由」に直接つながります。

各頁の100文字要約

p.70 — アンリの疑問

エドゥアールとの再会を語り終えたフランシスに、アンリが強い疑問を差し挟む。これほど劇的で急速に真の友情が生まれるのか。カロリーヌの遺書で眠っていた恋が再燃し、その感情を旧友に向けたのではないかと問う。

p.71 — 死者への愛と友情の違い

フランシスは、遺書を読んだ日に死者への愛が激しく蘇ったことを認める。だが忘れかけた恋が同じ強さで続くはずもない。後の愛情を初恋の反映と決めるのは酷だ。アンリは裁くのでなく友情の由来を知りたいと答える。

p.72 — 忘れられない尊敬と、変化する愛

ひと月の旅と研究を経ても、カロリーヌへの尊敬と感嘆が残る。しかしフランシスは、将来も変わらぬ愛を誓えるとは思えない。別の女性を愛する可能性も認める一方、彼女の記憶に生涯を捧げられないことを残念に思う。

p.73 — 支配できない感情への誓いを避ける

フランシスは、今も彼女への思いがあり、現在の生き方には良心の安らぎがあると言う。しかし過去の弱さや誤りを忘れてはならない。自分で支配できない感情に未来まで責任を負うと約束し、破る誓いは避けようと語る。

 

特にp.73の結論は、愛情に対して無責任でよいという主張ではありません。自分で支配できない将来の感情について、保証できない誓約をするべきではないという主張です。

 

Cレファレンス事例D09 spin-off initiative                                          『Francis Sauveur』第Ⅹ章

 

第Ⅸ章では、カロリーヌの遺書がフランシスに再生の目的を与えました。

第Ⅹ章では、フランシスはベルギー・オランダへの旅で知的活動を回復し、やがてムーズ川の蒸気船上でエドゥアール・ド・ロジエと約10年ぶりに再会します。

これは、後の「神聖な義務」を支える二つの経験のうち、もう一つの柱となる友情が実際に始まる場面です。

各頁100文字要約

p.65 — 知性による再生

フランシスは、放縦な暮らしで知性と再生する力まで失いかけたとアンリに語る。自分を立て直すため、ベルギー諸都市を巡り、歴史と美術を深く学ぼうと決意した。南方の雄大な自然は空想へ誘うため、まず研究を選ぶ。

p.66 — 美術と歴史の旅

ブリュッセル、ルーヴァン、ヘント、ブルッヘ、アントウェルペンからオランダの諸都市まで巡り、美術と歴史を学ぶ。一か月後、ノートを携えて戻ると、ナミュールからリエージュへムーズ川の蒸気船で向かおうとする。

p.67 — 霧の河岸に現れた青年

朝霧に包まれたナミュールの河岸で、フランシスは小さな蒸気船の甲板に腰掛ける。乗客たちが乗り込み、やがて灰色の上着と麦わら帽子の青年が現れる。青年はフランシスの旅鞄に刻まれた名前を見て驚き、足を止めた。

p.68 — エドゥアールではないか

青年の反応にフランシスは、十年会っていない旧友エドゥアールではないかと思う。しかし青年には金色の頬髭と口髭があり、確信できない。近眼の青年は川を見るふりをして眼鏡を使い、互いに相手を探るように近づく。

p.69 — 十年ぶりの抱擁

青年はフランシスに歩み寄り、旧友を覚えているかと慎重に呼びかける。十年ぶりの再会に、フランシスは答え終わる前のエドゥアールを力強く抱きしめた。故国を離れた旅先で、友情が息を吹き返す。彼は親友となった。

とくにエドゥアールについて、原典p.68は重要です。

favoris et moustaches blondes

金色の頬髭と口髭。

十年の歳月を経て少年から青年へ成長したことを示す記述です。従来のエドゥアールの顔を別人に変更するのではなく、成長した同一人物として髭を控えめに加える必要があります。

また原典では、二人とも旅装です。船上でもエドゥアールを常時モスグリーンの正装で描くのではなく、灰色の旅行用上着を外側に着用させます。

第Ⅹ章の思想的核心――友情はどのように成立するか

今回、原典p.69でとりわけ注目したいのは、次の結びです。

Je le vis, et je fus son ami.

「私は彼を見た。そして彼の友となった。」

ここでは、友情はまだ社会的な義務や献身の言葉として説明されていません。

それに先立って、互いに相手を認識し、感情を表し、再び関係を結ぶという出来事が描かれています。

第Ⅸ章でカロリーヌから託された義務と、第Ⅹ章で再び成立する友情は、発生の仕方が違います。

前者は死者から生者への依頼であり、後者は生者同士の相互的な関係です。

この違いは、最終章の「神聖な義務」が初恋と友情の双方に由来することを検証するうえで重要になります。

ただし、この時点で友情を完成した倫理的共同体として描くのは早計です。第Ⅹ章はその再成立を描き、続く章でその内実が明らかになるからです。

 

Cレファレンス事例D09 spin-off initiative                                          『Francis Sauveur』第Ⅸ章

キャラを再整理。アンリ格好良い。ただ、当初ChaPに任せた造形では、カロリーヌが金髪だったと思う。

金髪にすると、アンリがキャラ変起こして、泉元弥になった。
10歳若返らせたんだけれど。

アンリの服飾史――1840~1850年代

1852年のフランス男性服飾図版

ニューヨークのメトロポリタン美術館所蔵の『L'Élégant』1852年6月号の服飾図版が、年代と地域の両方に対応する資料です。

Fashion History Timeline 所収の図版解説

Fashion History Timeline

1852年頃のフロックコート現存品

LACMA所蔵、作品番号 M.2010.33.8a–b。ウール製フロックコートとリネン製ズボンの実物資料です。

LACMA Collections

1840年代の男性服は、以前の誇張された肩や胸の造形から、細長く落ち着いた輪郭へ移行しました。フロックコートは日中の標準的な上着となり、1850年代には袖やズボンが徐々にゆったりします。白いシャツ、絹製のクラヴァット、ベストとの組合せも時代に適合します。

Fashion History Timeline+1
アンリ専用の衣装仕様

コート:木炭色に近い深い焦茶

ウール製の仕立てのよいフロックコート。腰の切替えと長い裾。装飾は控えめ。

ベスト:石灰色を含む淡い茶灰色

小さな織柄の上質な絹または綿混紡。フランシスの赤褐色の華やかな柄ベストと区別。

首布:黒に近い濃紺の絹

1850年代に適合する小ぶりのクラヴァット。大きすぎる結び目は避ける。

ズボン:温かみのある灰色

当時の細身から緩やかな直線へ移るシルエット。革製の短靴を合わせる。

この配色は、1850年代の実物資料と服飾研究に適合する範囲で設定したドラマ独自の衣装案です。メトロポリタン美術館には1850年代の絹・綿製ベストも現存しています。

The Metropolitan Museum of Art

アンリには落ち着いた都会の知識人らしい品位を与え、モスグリーンの上質なツイードはエドゥアール固有の識別色として残します。また、人物図鑑内の「1831–1857」は物語の年代であり、アンリ個人の生没年としては使用しません。

この仕様により、人物の同一性を維持したまま、原典に忠実な年代感と、ドラマ固有の役柄の区別を両立させます。

服飾史の追加一次資料として、メトロポリタン美術館の服飾図版アーカイブも参照できます。1840年代・1850年代の男女別の当時の図版が収録されており、今後の人物衣装の年代別検証にも利用できます。

The Metropolitan Museum of Art

 

① 各頁100文字要約

p.56 — カロリーヌの遺書

フランシスはカロリーヌの死を知らず、彼女が自分に手紙を遺すとは思わなかった。宛名は彼女の筆ではない。だが開封すると懐かしい筆跡が現れ、激しい動揺で読む手が震える。彼はその文面を今アンリに暗唱し始める。

p.57 — 愛情と家族への義務

カロリーヌは幼少から没落した一家を救おうと願った。母の死、父の絶望、兄の努力を思い、妹クレールを守るため、富裕な男との結婚を義務と信じた。フランシスへの愛を犠牲にしたが、死の間際にも彼を愛すと告げる。

p.58 — 許しを求める告白

死にゆくカロリーヌは、フランシスの恋心を知りながら冷淡に振る舞ったことを詫びる。彼を慰めた別の女性がいたかと苦しみ、許しを請う。またグランクールで彼と二人で教会へ行くはずだった日の思い出を語り始める。

p.59 — 舟の鍵と草原の記憶

カロリーヌを教会へ送る朝、フランシスは川を渡る舟の鍵を忘れ、庭師のもとへ走った。彼女は気遣いを密かに感じる。二人で草原を歩き、彼女が腕を預けたとき、愛の喜びを覚えながらも、その気持ちを抑えようとした。

p.60 — 幸福を選べない社会

舟を寄せて手を差し出すフランシスを、カロリーヌは愛しながら拒み続けた。死を前に、互いの幸福を選べなくする社会の専制を責める。父の死後に結婚を果たせなかった彼女は、彼への愛を抱いたまま逝こうとしている。

p.61 — クレールへの献身の依頼

カロリーヌはクレールの行く末をフランシスに託す。情熱的で幼い妹を理解し導いてきたのは自分だけだと言い、残されるナタリーが幸福を守れるか案じる。孤立したとき、友人として、父親のように支えてほしいと願う。

p.62 — 生涯を託す遺言と悔恨

カロリーヌは、彼の生涯全体を求めるかもしれないと認め、彼と妹の名を胸に死ぬと結ぶ。手紙の後、沈黙を経てフランシスは、放縦な暮らしで彼女への悲しみを汚した自分を恥じる。別れにふさわしくなかったと悔やむ。

p.63 — 再生の決意

彼女が純粋な愛を守ったと知り、フランシスは涙と悔恨に沈む。だが彼女が自分の人生に願いを託したことを思い出し、記憶に忠実に生き直そうと決める。怠惰なパリから離れて再生するため、まずクレールに手紙を書く。

p.64 — ベルギーへの旅立ち

クレールはアフリカにおり、二、三年戻れないと知る。フランシスは学業を整理し、六月末ベルギーへ旅立つ。カロリーヌとエドゥアールの手紙を読み返すうち、悲しみを理解してくれそうな旧友との友情を切望し始める。

『Francis Sauveur』第Ⅸ章の思想的深掘り

第Ⅸ章で発見した思想的核心

原典p.60には、次の言葉があります。

le despotisme d'un monde qui ne nous permet pas de choisir nous-mêmes notre bonheur

「自分たち自身の幸福を選ぶことを許さない社会の専制」

これは、これまで検討してきた社会の規定する幸福と、個人の幸福選択との対立を、カロリーヌ自身が明言したものです。

さらにp.61~62では、そのカロリーヌがフランシスにクレールの保護を依頼し、彼の人生全体を求めているかもしれないと認めます。

ここには、極めて重要な緊張があります。

社会から課された献身を拒否したカロリーヌが、今度は愛するフランシスに、生涯に及ぶ献身を求める。

これは二つの義務の同一性を意味しません。しかし、自発的な愛情から生まれる義務であっても、他者の人生にどれほどの拘束を与えてよいのかという問題が残ります。

そのため第Ⅸ章は、最終章のアンリによる「フランシスは幸福だ」という擁護に向けて、最も重要な検証対象の一つになります。

幸福を選ぶ自由は、他者の幸福を引き受ける義務と両立するか

レオン・ワルラス『Francis Sauveur』(1858年)の第Ⅷ・Ⅸ章を読み直すと、これまで検討してきた問題が、さらに根本的な形で現れます。

社会が個人の幸福を決めてはならないとしても、個人が愛情によって他者の人生を拘束することは、どこまで正当化されるのか。

これが第Ⅸ章の核心だと考えます。

とりわけ重要なのは、カロリーヌが「社会の専制」を批判する一方で、フランシスの生涯を求める自分自身の要求が、重大な犠牲を伴うことを認識している点です。

そして今回、原典印刷p.57、60~63を直接再照合した結果、先の説明を一つ精密に訂正する必要があると分かりました。

カロリーヌは社会から課された献身を単純に拒否したのではありません。彼女はその義務をいったん自分の義務として受け入れ、愛を犠牲にしようとしながら、最後まで犠牲を完遂できなかったのです。

この違いによって、小説の思想的な奥行きがさらに深まります。

1.カロリーヌは社会の命令を「自分の義務」として受け入れていた

原典印刷p.57には、次の発言があります。

Epouser un homme riche pour donner aux miens le bonheur et la tranquillité, tel on me faisait mon devoir, et tel il m'apparut.

「家族に幸福と安寧を与えるために裕福な男性と結婚すること。それを私の義務だと人々は教え、私自身にもそう思われた。」

ここには二つの段階が存在します。

  1. 社会と家族の置かれた経済的状況が、カロリーヌに特定の行為を期待させる。
  2. カロリーヌ自身がその期待を正当な義務だと考えるようになる。

したがって、社会からの強制と本人の自発的意思は、単純には分離できません。

  • 外部の事情 家の没落・父の絶望・妹クレールの将来
  • 社会的規範 裕福な男性との結婚を求められる
  • 規範の内面化 自分自身でも、その結婚を義務だと信じる
  • 個人の選択 フランシスへの愛情を犠牲にしようとする

これは、自由と責任を考えるうえで重要な問題です。

ある人が「自分の意思で選択した」と言っても、その人が何を選択肢として認識できたのか、何を義務だと信じるようになったのかによって、その選択の自由度は変わります。

カロリーヌには、少なくとも恋愛と家族の救済という二つの価値が存在していました。しかし、彼女の置かれた社会では、それらを同時に実現することが困難だった。

したがって、ここで問われるのは単なる選択の自由ではなく、選択可能な幸福が、社会的・経済的条件によってどこまで制限されているかという問題です。

これは現代の自由論や社会的公正論へ接続できる論点です。ただし、「規範の内面化」「選択肢の制約」という整理は、ワルラスの原文そのものではなく、現代的な分析概念です。

2.「社会の専制」は、本人だけでなく愛する人の幸福まで奪う

原典p.60の文章は、先に引用した箇所より少し長く読む必要があります。

Le coupable en ceci n'est pas moi : c'est le despotisme d'un monde qui ne nous permet pas de choisir nous-mêmes notre bonheur ni pour nous, ni pour les êtres que nous chérissons.

「このことについて罪があるのは私ではありません。私たち自身の幸福を、私たち自身のためにも、愛する人々のためにも、選ぶことを許さない社会の専制なのです。」

重要なのは、最後の部分です。

  • ni pour nous, ni pour les êtres que nous chérissons

「自分たちのためにも、愛する人々のためにも、選べない。」

ここでカロリーヌは、自分が愛する相手を選べないことだけを批判しているのではありません。

社会の制度や慣習が、愛する人を幸福にする自由まで制限していることを批判しています。

これは個人の欲望と社会の命令との対立を超えています。

社会的規範が、二人の間に成立しうる幸福な関係そのものを妨げる、という批判だからです。

さらに彼女は、

Je meurs pour l'avoir combattu

「私はその専制と闘ったがために死ぬ。」

と述べています。

ただし、この一文から、社会制度が彼女の死を医学的に引き起こしたと断定することはできません。ここで明確なのは、カロリーヌ自身が、自分の死を社会の専制との闘いに結びつけて意味づけていることです。

したがって、原典はカロリーヌの個人的悲劇を社会的問題へ転化しています。

この点が、ワルラスの小説を単なる悲恋物語に還元できない理由の一つです。

3.しかしカロリーヌ自身も、他者の人生を拘束しようとしている

ここが最も深く掘り下げるべき箇所です。

原典p.61~62を読むと、カロリーヌの依頼は、単純な「妹をよろしくお願いします」という願いではありません。

3-1.依頼は、最初から無条件ではない

まずp.61では、フランシスがクレールの保護者となる可能性について、

si elle le veut

「クレール自身がそれを望むならば」

という条件が置かれています。

さらに、

s'il arrivait qu'un jour elle fût seule et sans appui

「いつか彼女が孤独になり、頼る人もなくなるようなことがあれば」

という条件もあります。

ここは見落とせません。

カロリーヌはフランシスの献身を求めていますが、クレールの意思と将来の事情を、完全には無視していないのです。

保護関係が成立するには、クレールがそれを望むこと、そして保護を必要とする事情が生じることが想定されています。

ただし、これだけで現代的な意味での対等な同意関係が成立しているとまではいえません。

なぜなら、カロリーヌは同じ頁で、クレールを導き、時には統御すべき存在としても語っているからです。

la gouverner(彼女を統御する)という表現は、当時の家族的・保護的な人間関係を考えるうえで重要です。

つまり、本人の意思の尊重と、保護者による指導・統御が同居している。

ここに、近代的な個人の自律と、伝統的な家族的保護との緊張が現れています。

3-2.生涯に及ぶ献身を求めることを、カロリーヌは自覚している

そしてp.62では、

C'est votre vie peut-être, Francis, que je vous demande là tout entière.

「フランシス、私があなたに求めているのは、ひょっとすると、あなたの生涯そのものなのです。」

と述べています。

ここには peut-être(ひょっとすると)という留保があります。

カロリーヌは、自分の願いがフランシスにどれほど大きな負担を与えるかを、少なくとも認識しています。

しかし、その直後には、

quelque chose me dit qu'elle m'appartient encore !

「何かが私に告げるのです。あなたの人生は、まだ私のものなのだと。」

とも述べています。

これは強烈な一文です。

社会が個人の幸福を決めることを批判した人物が、今度は愛情を根拠に、他者の人生を自分に帰属するものとして語っている。

ここに、あなたの問題提起した逆説が、そのまま現れています。

愛情が義務を生むことと、愛情が相手の生涯を所有することは、同じではありません。

前者が成立する場合でも、後者が当然に正当化されるわけではない。

ただし、カロリーヌの表現を文字どおりの所有権の主張と解釈する必要もありません。これは死を前にした恋愛上の切実な発言です。

重要なのは、それでもなお、この言葉がフランシスに強い道徳的拘束を及ぼしうることです。

3-3.「依頼する権利」と「服従を要求する権利」は違う

ここから、分析上の区別ができます。

カロリーヌには、フランシスに妹の保護を依頼することができる。

しかし、その依頼をしただけで、フランシスに生涯の献身を強制できるわけではありません。

さらに、フランシスが献身を選んだとしても、クレールの意思まで自由に決定できるわけではありません。

この三者関係は、次のように整理できます。

関係

誰が何を求めるか

検討すべき正当性

社会 → カロリーヌ

家族救済のための結婚

本人の幸福選択をどこまで制限できるか

カロリーヌ → フランシス

クレールへの生涯に及びうる献身

愛情に基づく依頼は、どこまで義務を生むか

フランシス → クレール

保護・友情・支援

クレール自身の意思と幸福を尊重しているか

アンリ → フランシスの生涯

献身による幸福という評価

当事者の人生を他者がどこまで評価できるか

このように見ると、問題は「義務を負うか、負わないか」だけではありません。

誰が義務を定め、誰が引き受け、誰が利益を受け、誰の選択が尊重されるのか。

これが、個人間の関係を解析する視点になります。

4.第Ⅸ章p.63の「悲しい幸福」は、最終章へ直結する

今回の原典再照合で、もう一つ重要な表現を確認できました。

p.63でフランシスは、カロリーヌの遺書を読んだ後、彼女の記憶に忠実に生きることを決意します。

そして、

j'entrevis un bonheur triste qui me séduisit.

「私は、自分を引きつける一つの悲しい幸福を予感した。」

と述べています。

ここが、最終章との直接的な接点です。

第Ⅶ章では、

Rien n'est si douloureux que le plaisir substitué au bonheur.

「幸福の代わりに快楽を置くほど苦痛なことはない。」

と語っていました。

ところが第Ⅸ章では、悲しみが消えないまま、幸福の可能性が再び現れます。

第Ⅶ章の快楽は、喪失を忘却するためのものでした。

第Ⅸ章の「悲しい幸福」は、喪失を忘れるのではなく、その記憶に忠実に生きることから生じています。

この対照は明確です。

 

  1. 第Ⅶ章 p.47

    忘却のための快楽

    苦痛を忘れようとして享楽を求める。しかし、幸福は得られず悔恨が残る。

  2. 第Ⅸ章 p.63

    記憶に忠実であることによる幸福

    悲しみを引き受け、その記憶を人生の目的へ変えようとする。

  3. 第XXXVI章 p.259

    献身の自覚による幸福

    アンリは、犠牲を引き受けたという良心の自覚に、大きな幸福を認める。

この三つを結ぶと、一つの思想的展開が見えてきます。

快楽による忘却 → 記憶に忠実な生き方 → 義務に根ざした献身

しかし、ここにも留保があります。

p.63のフランシスは、あくまで「悲しい幸福を予感した」と述べています。

最終章のアンリは、そこから一歩進んで「フランシスは幸福である」と断定します。

つまり、当事者が可能性として語った幸福を、他者が確定的な価値判断として提示しているのです。

これが、オラースの異議と、最後の聞き手の沈思を理解する一つの手掛かりになります。

5.第Ⅷ章との接続――金銭、意思決定、他者との関係

ここで、第Ⅷ章をもう一度取り上げる意味があります。

フランシスの再生は、いきなりカロリーヌの手紙だけから始まったわけではありません。

原典p.48~53では、異なる三つの契機が順に登場します。

  1. 金銭的資源の回復。 約2,600フランの債権回収によって借金を返済できた。しかし生活を改めることはできず、残金を急速に浪費した。

  2. 自分自身の生活を変えようとする決意。 夜明けの街を歩き、故郷の記憶に動かされて生活再建を考える。この決意は、まだカロリーヌの手紙を読む前に生まれている。

  3. 他者との関係から生まれる新しい目的。 手紙を通じてカロリーヌの愛情と願いを知り、自分の人生を他者への献身と結びつけて再構成し始める。

ここには重要な違いがあります。

金銭があることは、選択を実行するための条件になりえます。しかし、金銭を得ただけでは、何を選ぶべきかという価値判断は決まりません。

また、自分で生活を変えようと決意することと、他者への責任を引き受けることも同じではありません。

そして第Ⅸ章末、p.64では、フランシスはエドゥアールへの友情を求め始めます。

これは見逃せません。

彼の新しい人生は、単にカロリーヌからの遺命を守ることだけで構成されていくわけではないのです。

フランシス自身が、別の人間関係を求め始めている。

その後、第Ⅱ章p.18でフランシスが自分の神聖な義務を説明するとき、その起源はカロリーヌへの初恋だけではありません。

mon premier amour et ma meilleure amitié

「私の初恋と、私の最良の友情」

という二つの経験に由来するものとして語られます。

したがって、最終的な献身の発生根拠を、カロリーヌからの一方的な遺命だけに還元することはできません。

彼女の願いをフランシスが受け止め、その後の友情と経験を通じて、自分自身の義務へと形成していったと読む余地があります。

この過程は、第Ⅹ章以降でさらに検証すべきです。

6.ここからワルラスの経済思想に接続できるか

接続の可能性はあります。ただし、かなり興味深い注意点があります。

1858年の『Francis Sauveur』序文XXIX頁で、ワルラスは道徳を、

l'équilibre et l'accord de l'intérêt individuel et de l'intérêt général

「個人の利益と一般的利益との均衡および調和」

として定義しています。

この定義を踏まえるなら、第Ⅸ章の問題は次のように言い換えられます。

社会全体の利益とされるものが、個人の幸福を犠牲にしているとき、その社会的利益は本当に正当なのか。

カロリーヌの結婚は、家族の経済的安定に資するものとして構想されました。しかし、そのために彼女とフランシスの幸福が失われる。

その結果、社会的利益と個人的利益の調和は成立していません。

一方、フランシスがクレールの幸福を守ろうとする場合、個人的な目的と他者への配慮が結びつく可能性があります。

ただし、それが実際に公正な関係となるためには、クレール自身の幸福と意思も尊重されなければなりません。

このように、個人間の関係が正当であるかを検討することなしに、社会全体の調和を断定できないという研究仮説が立てられます。

後年のワルラスとの関係

経済思想史の研究でも、ワルラスの社会経済学は、単なる効用の最大化や自由放任とは異なるものとして論じられています。

Jean-Pierre Potier は、ワルラスの純粋経済学・応用経済学・社会経済学を、経済的効率と社会的公正の調和という観点から整理しています。

ideas.repec.org

さらに、ワルラスの公共的利益を論じた Béraud と Numa の研究では、彼の国家観において、共同体の利益は単純に個人の効用を合計したものではないことが指摘されています。

これは、ご提示の仮説にとって大切な留保です。

ワルラスの近代性を、社会を個人の選好の総和へ還元したことに求めるのは適切ではありません。

むしろ、個人の利益と、個人に還元できない社会的条件の双方を認め、その関係をどう調整するかという問題意識に求める方が、後年の思想とも整合的です。

なお、小説の献身や幸福が、そのまま一般均衡理論の効用関数に対応するわけではありません。これは思想的な問題設定の連続性に関する仮説であり、数学的理論の直接的な起源を立証したものではありません。

7.第Ⅸ章は本当に「自由の勝利」を描いているのか

最後に、対立する三つの読みを区別したいと思います。

第一の読みは、自律の回復です。 社会が命じる幸福を拒否し、自分の愛情と良心から生き方を選ぶ。フランシスの再生は、他律的な義務から自発的な義務への転換として理解できます。

第二の読みは、支配の再生産です。 社会の命令から自由になったように見えても、死者への忠誠という形で、別の強い道徳的拘束が生まれる。本人が幸福を感じることは、その拘束が正当であることの十分な証明にはならない。

第三の読みは、両者の緊張を解消しない立場です。 フランシスは自ら献身を選び、そこに実際の幸福を見いだす可能性がある。しかし同時に、その献身は彼が失った別の幸福の可能性を消し去るものではない。

私は、現時点では第三の読みが最も多くの原文を説明できると考えます。

これは、アンリの幸福論を退けることではありません。

むしろ、アンリの擁護が持つ倫理的な力を認めながら、それによってフランシスの人生を完全に説明し尽くしたことにはしない立場です。

加えて、カロリーヌの手紙は、p.56でフランシスがアンリに「一字一句」暗唱すると宣言する形で読者へ伝えられます。手紙の発言は作品中で重要な証言ですが、それでも私たちが受け取るのは、フランシスの記憶と語りを経由したカロリーヌの言葉です。

この語りの媒介も、作品の価値判断を検討する際には無視できません。

 8.研究仮説としての結論

ここまでの議論から、私は次のように定式化するのが適切だと考えます。

『Francis Sauveur』の近代性は、社会が個人の幸福を規定する権限への批判にとどまらず、個人間の愛情から生じる義務についても、その成立根拠、引受けの自由、相手方の意思、負担の配分を問い直す余地を作品内部に残している点に見いだせる。

これによって、義務と自由を必然的な一組とすることなく、両者の関係を分析できます。

義務が存在することから、その義務の引受けが自由であったことは導かれません。

また、本人がある犠牲に幸福を見いだしたことから、その犠牲を要求した社会的条件の正当性も導かれません。

さらに、その献身によって第三者が幸福になったかどうかは、独立して検討すべき問題です。

この三つの区別が重要です。

義務の成立、義務の引受け、義務の履行から生じる幸福は、それぞれ異なる問題である。

そして第Ⅸ章には、これらすべてを問い直すための材料が存在しています。

特に、カロリーヌの si elle le veut、C'est votre vie peut-être、そしてフランシスの un bonheur triste は、今後の研究で追跡すべき三つの鍵となる表現です。

第Ⅹ章以降では、エドゥアールとの友情がどのように成立するのか、フランシスがカロリーヌの遺命をどこまで自分自身の義務へと変えるのか、そしてその関係がクレールの自律を保障するものなのかを検証する必要があります。

そこまで確かめて初めて、最終章の「Francis est heureux.」が、自由な幸福の肯定なのか、それとも献身を通じた自己犠牲の倫理的正当化なのかを、より厳密に判断できるでしょう。

 

Cレファレンス事例D09 spin-off initiative                                          『Francis Sauveur』第Ⅷ章

第Ⅶ章では、フランシスは幸福の代わりに快楽を追い、深い後悔を経験しました。

第Ⅷ章では、1852年6月初旬、放縦な生活を続けるフランシスが、パリの夜明けの街を歩き、生活を改めようと決意します。

しかし帰宅すると、旧友エドゥアール・ド・ロジエからの手紙が待っています。そこには、カロリーヌが5月初旬に亡くなったこと、彼女がフランシスに宛てた手紙を遺したことが記されています。

重要なのは、エドゥアールは第Ⅷ章で直接フランシスと再会するわけではないことです。まず名刺と手紙によって登場します。

また、第Ⅷ章末では、カロリーヌの遺書の内容はまだ明かされません。

① 各頁100文字要約

p.48 — 放縦な生活と予期せぬ幸運

放縦な生活を送るフランシスは、退屈を紛らわすため遊興を重ね、金銭の管理も乱れていた。真面目な暮らしに戻ることは日に日に難しくなる。そんな時、生活を改める助けとなり得た思いがけない金銭上の幸運が訪れる。

 

p.49 — 2,600フランの回収

公証人モローは、亡父の債権二千六百フラン余りを、債務者の息子から回収する。フランシスは遊興で作った八、九百フランの借金を返し、残金を手にする。しかしこの臨時収入は、生活を正す機会にはまだならなかった。

 

p.50 — 1852年6月、夜明けのクリシー

残った千七百フランを引き出しに入れ、フランシスは友人たちとの遊興を続ける。一八五二年六月初めの朝六時、クリシーの料理店を出て徒歩で帰る途中、十日余りで残金が約五百フランになったと悟り、浪費をも恐れる。

 

p.51 — 朝日に照らされたパリ

意志も勇気も失ったフランシスは、財産を使い果たす未来を恐れ、自責する。ところが人通りのない大通りに朝日が差すと気分が和らぎ、マドレーヌ方面へ歩き始める。街路清掃人の姿が故郷の道路と昔の日々を思わせる。

 

p.52 — ヴァヴァン通りのアトリエ

故郷の美しい坂道や青春の記憶に心を動かされ、フランシスは生活を改めると誓う。ヴァヴァン通りのアトリエに戻ると、庭の木漏れ日と書物が決意を支えるが、ムードンでの夕食の誘いにまた出かけかねない自分を疑う。

 

p.53 — エドゥアールの名刺

庭に面した戸を開け、玄関の段に椅子を運んだフランシスは、仕事をせず木陰で思索する。卓上に封蝋で束ねた二通の手紙と名刺を見つける。名刺には旧級友で弁護士となったエドゥアール・ド・ロジエの名があったのだ。

 

p.54 — カロリーヌの死の知らせ

エドゥアールの手紙には、ガスティニー夫人からの依頼で二度訪ねたことと、カロリーヌが五月初旬に死去したことが記されていた。妹クレールは従姉妹とオラン地方の親族のもとへ移り、亡き姉の手紙が同封されている。

 

p.55 — エドゥアールの署名

エドゥアールは、母とスイスへ出発するため会えないまま、二通の手紙と名刺を包みにしてフランシスのもとへ残す。再会を願い、変わらぬ友情を約束する言葉で手紙を締めくくる。署名は「エドゥアール・ド・ロジエ」。

今回の思想的な焦点

第Ⅷ章の展開は、これまで検討してきた「快楽・満足・幸福・義務・責任」の関係を、具体的な人生の出来事として検討する機会になります。

とりわけ、2,600フランを得ても生活を立て直せなかったフランシスが、朝の光と故郷の記憶によって生活を改めようと決意するという対比は注目に値します。

さらに、エドゥアールからの手紙という、他者との関係から生じた出来事が、新たな転換をもたらします。

この章の読解では、金銭的資源の獲得、本人の意思決定、他者との関係がそれぞれ異なる役割を果たすことを追跡できます。