


街中では馬なんだな。ロジエ氏追加。
カトリーヌとクレールが痩せた。

今回は第Ⅻ章の船上の友情から、故郷への帰還とロジエ家の屋敷への到着へ移ります。
フランシスは8月の午後、かつて幾度も訪れた宿屋「グラン=テーグル」に戻り、待っていたエドゥアールと再会します。幼少期に親族と過ごした思い出が蘇り、失われた家庭への思慕と新しい友情が重なります。
この章では、エドゥアールは狩猟服でフランシスを迎え、二人は馬に乗ってサン=グラティアンの屋敷へ向かいます。前章の旅行用上着ではなく、場面に適合した衣装が必要です。
各頁100文字要約
p.83 — 幸福な記憶の力
幸福だった日々の記憶は、旅人の背後へ遠ざかる夕景のように、穏やかな色合いへ溶け合う。フランシスは、のちに苦痛に沈んだ夜でさえ、その思い出に慰めを見いだした。彼はアンリに、小さな幸福の情景を語り始める。
p.84 — グラン=テーグルへの帰還
フランシスは、単純で劇的ではない情景こそ自分の物語の核心だという。彼は故郷の町の宿屋グラン=テーグルを思い出す。駅馬車の到着する中庭、二翼の建物、木造回廊。そこには待ち合わせていたエドゥアールがいた。
p.85 — 活気に満ちた昔の宿屋
宿屋には管理人ブノワの事務所、賑わう台所、馬小屋、料理を運ぶ人々がいた。庭の小さな噴水は養魚池へ落ち、駅馬車が中庭に集まる。街道の交通を支える宿の細部が、フランシスの幼い日の記憶を鮮やかに呼び覚ます。
p.86 — 少年時代の家族の思い出
フランシスは少年時代、休暇で宿へ帰るたび親族に抱きしめられたことを思い出す。叔母や従姉妹、叔父、乳母、年老いた使用人たち。また、旅を終えた親族を迎えて喜ぶ日もあった。宿の中庭は家族が出会う場所だった。
p.87 — 失われた愛情と新しい友情
宿屋の中庭には別れの悲しみもあった。いま一族は散り散りだが、新しい愛情が失った愛情を慰める。八月の晴れた午後四時、三年ぶりに帰ったフランシスは、自分を待つ友の姿に、少年時代の無邪気な喜びを再び感じた。
p.88 — エドゥアールと馬上の旅
狩猟服のエドゥアールは馬二頭と従者を連れ、故郷の宿でフランシスを迎える。荷物を託した二人は馬に乗り、祖父の家とラ・ブラディの旧邸の前を通る。変わらぬ古い町並みに胸を打たれ、コンシュへ続く街道を進んだ。
p.89 — サン=グラティアンの館
懐かしい故郷の風景に思い出を重ねながら二時間ほど馬を走らせ、二人は街道を右へと折れる。美しい並木道の先にはサン=グラティアンの館があった。中庭にはエドゥアールの父母と幼い妹が待ち、フランシスを迎えた。
第ⅩⅢ章の思想的焦点
この章で注目したいのは、p.87の、
les affections nouvelles nous consolent des affections perdues
「新しい愛情は、失われた愛情について私たちを慰める。」
という一文です。
フランシスはかつての家庭を取り戻すことはできません。しかし、エドゥアールという友人によって、昔の故郷に再び帰ることができます。
ここでは新しい友情が、失われた過去の単なる代用品ではなく、過去と現在を再び結びつける働きを持っています。
これまで検討してきた「献身による幸福」に加えて、第ⅩⅢ章では「他者との関係による記憶と幸福の再構成」を追跡するのが有効でしょう。
ワルラスは、文学を科学と同一視したわけではないが、文学と科学を連続する知的活動として明確に位置づけていた。
『Francis Sauveur』序文XIII頁には、実際にこう書いてあります。
Le roman est à la limite du domaine de l'art et touche à celui de la science.
「小説は芸術の領域の境界に位置し、科学の領域に接している。」
ワルラスは、芸術の対象が歴史とともに変化すると考えていました。
古代ギリシアでは、建築や彫刻に表れる外面的・身体的な美が重要だった。しかし近代では、知性、感情、道徳といった内面的世界が芸術の中心へ移っていく。
序文XXVI頁では、近代の美を内面的かつ道徳的なものとして位置づけています。
だからこそ、小説が重要になるのです。
人間の内面を、それを取り巻く社会的な条件とともに扱えるからです。
この考え方には、後のゾラの自然主義との接点があります。
もっとも、実験小説論 が医学の実験的方法を小説に適用しようとしたのに対し、ワルラスは芸術の固有性を維持しています。ゾラの『実験小説論』は1880年で、ワルラスの序文より22年後です。
したがって、ワルラスをゾラ型の自然主義者と呼ぶのは適切ではありません。
むしろ彼は、社会と人間の道徳的問題を文学によって研究できるのではないかという可能性を追求していた、と考えられます。
ワルラスの長大な序文は、単なる挨拶ではありません。
芸術の方法、芸術史、人間の道徳、社会的な美を論じたうえで、実際に一つの小説を提示しています。
つまり、
序文=方法論の提示
小説=その方法論による実践
という構造です。
ワルラスは文学的な感動を通じて道徳的判断を形成しようとしています。
序文XXXIII頁では、同時代の社交界の慣習と、真に社会的な法則とを区別し、小説家が後者を発見すべきだと論じています。
ここに、あなたのいう文学における「一般問題」を抽出しようとする志向が、かなり明確に表れています。
恋情・友情・家族愛は、もともと一つの感情だったのか
ここは慎重に考える必要があります。
私は、三つの感情がかつて完全に一体だったというよりも、区別する語彙は存在していたが、その境界、表現形式、社会的な意味づけが現在とは異なっていたと考えます。
例えば、19世紀には romantic friendship と呼ばれる親密な同性間の友情が広く見られました。
男性同士が強い愛情を表現し、生涯にわたる献身を約束し、身体的な親しさを示すこともありました。
こうした関係を現代の性的指向のカテゴリーに直接置き換えることはできません。歴史研究でも、友情・愛情・性愛の境界が時代によって異なることが重視されています。www.cambridge.org
リンカーンの男性間の親密な友情をめぐる議論も、その典型例です。
そして『Francis Sauveur』には、次の重要な文章があります。
原典p.77でフランシスは、
Pourquoi donc, en effet, l'amitié ne naîtrait-elle pas comme l'amour
「実際、どうして友情が恋愛と同じように生まれてはならないのか。」
と問いかけます。
ここは非常に重要です。
ワルラスは、友情と恋愛を同一のものと宣言しているわけではありません。
しかし、その発生する仕組みが共通している可能性を認めている。
相手の人格に触れ、その人が持つ美質を直感し、まだ経験していない将来の関係を予感する。
この共感が、恋愛にも友情にも働くというのです。
そして第Ⅻ章p.76では、フランシスがエドゥアールを、長年待ち望んでいた兄弟のような存在として迎えたと述べます。
ここで成立しているのは、
恋情から友情への単純な置換でも、友情から家族愛への一方向的な発展でもありません。
友情の内部に、恋情に似た情熱と、兄弟愛に似た献身が同時に存在しているのです。
ただし、感情が重なっていることと、その関係に性的欲望が存在することは、別々の判断です。
フランシスとエドゥアールの関係には、現代のクィア文学研究から問い直せる余地があります。しかし原典p.74~80だけから、二人の性的関係や性的指向を断定することはできません。
むしろ現段階では、後世の恋愛・友情の分類に収まらない関係を、ワルラスがどのように言語化しようとしたかを研究する方が生産的でしょう。
最も重要なのは「感情」ではなく「地位」ではないか
ここが、あなたの議論で最も発展性のある部分だと思います。
フランシスの感情を、恋情、友情、家族愛のいずれかに分類するだけでは、小説の核心を説明できません。
なぜなら、問題になっているのは感情の種類だけでなく、ある個人が別の個人に対して、どのような地位を持ち、その地位によって何を求められるのかだからです。
例えば、次のように整理できます。
|
関係 |
精神的・社会的地位 |
そこから生じる規範的な問題 |
|---|---|---|
|
フランシスとカロリーヌ |
愛する者・愛される者 |
相手の幸福をどこまで引き受けるか |
|
フランシスとエドゥアール |
友人、精神的な兄弟 |
忠実さと献身をどこまで約束できるか |
|
フランシスとクレール |
擬制的な家族、保護する者・される者 |
保護と本人の自由をどう両立させるか |
|
カロリーヌと社会 |
家族に貢献すべき娘 |
社会的役割から婚姻義務を導けるか |
この整理には、法哲学との接続可能性があります。
あなたのいう「擬制的」という表現は、確かに「疑似的」より適切です。
「疑似的な家族愛」ならば、本物の家族愛に似ているが本物ではない、という意味合いになりやすい。
しかし「擬制的な家族関係」は、血縁関係が存在しなくても、一定の人物を家族的な地位に置くことで、家族に準じた関係を構成するという意味になります。
もちろん、法的な養子縁組と、小説に描かれた精神的な関係は区別しなければなりません。
ただし、両者には共通する形式があります。
個人の自然的属性だけでは決まらない関係が、ある種の地位を媒介して成立するということです。
さらに厳密にいえば、地位は個人に帰属しますが、その成立根拠はしばしば他者との関係にあります。
フランシスが「保護する者」であるなら、クレールは誰に対してどのような地位を持つのか。
また、その関係は誰の意思で成立するのか。
ここで第Ⅸ章p.61の si elle le veut(クレール自身が望むならば)が重要になります。
地位の付与によって関係が構成されても、本人の意思を無視して義務や服従を無制限に生み出せるわけではない。
この区別によって、愛情から義務が生じる過程と、愛情を根拠に他人の自由を奪う過程を分析できます。
さらに、第Ⅺ章と第Ⅻ章の間には緊張がある
第Ⅺ章p.73でフランシスは、自分が支配できない将来の感情について誓約することを慎むべきだと述べます。
一方、第Ⅻ章p.77では、真の友情の始まりに交わす握手が、将来の献身と感謝の保証になると述べています。
これは単純な矛盾なのでしょうか。
私は、ここにワルラスが必ずしも明示的には解決していない重要な問題があると考えます。
将来も同じ感情を持ち続けるという約束と、将来も相手に対して誠実に行動するという約束は異なります。
前者は感情の持続の保証です。
後者は行為や関係について引き受ける義務です。
そう考えると、友情の地位とは、感情の不変性を保証する地位ではなく、感情が変化してもなお相手に対して何らかの誠実さを要求する地位なのではないかという仮説が成り立ちます。
ただし、その要求がどこまで正当かは、さらに別の問題です。
この区別は、最終章でアンリが献身の幸福を擁護するときにも重要になります。
『アルジャーノンに花束を』との共通性
アルジャーノンに花束を は、科学実験によって知能が変化する人物を描きます。
しかし物語の問題は、知能を増加させられるかどうかに尽きません。
知能が変化したとき、その人が他者に対して持つ地位や、他者から受ける評価はどう変わるのか。
ここに核心があります。
チャーリイは、知的能力を得ることで他者を理解する力を増します。しかし、それによって他者から愛されること、尊重されること、幸福になることが当然に保証されるわけではありません。
しかも、本人の変化によって、人間関係そのものの意味が変わっていきます。
ダニエル・キース自身は、この作品の出発点として、知能を人工的に高めることができたら何が起こるかという問いを挙げています。
ここで『Francis Sauveur』と比較すると、
-
ワルラスは、感情と社会的関係を通じて人格的な地位が形成される過程を描く。
-
キースは、知能の変化を通じて他者との関係や人格評価が再編成される過程を描く。
という共通の構造が見えてきます。
両作品は異なる出来事を扱っていますが、人間が獲得した能力と、人間として尊重されることとの関係を問い直す点で比較できます。
このような共通性こそ、あなたのいう文学の「一般問題」に近いと思います。
学問は人格形成か、対象の操作か
人格形成を、既存の社会的規範に適合する人間を育てることと考えるなら、カロリーヌが批判した「社会の専制」に近づいてしまいます。
一方、人格形成を、自分の幸福を判断し、他者を独立した人格として承認し、自分の引き受ける義務の根拠を問い直せるようになることだと理解するなら、それは自由と深く結びつきます。
この意味で、人格形成は単なる道徳的訓育ではありません。
社会が個人に与える地位を、個人自身が吟味し、引き受け、必要なら拒否できるようになることも含まれます。
ワルラスが抽出した文学の「一般問題」
あなたの仮説を次のように定式化できると思います。
ワルラス『Francis Sauveur』は、恋情・友情・家族愛という異なる情動を素材として、個人間の関係がどのような人格的地位を成立させ、その地位からいかなる義務が導かれ、さらにその義務が個人の自由と幸福にどのように関わるのか、という一般問題を文学的に探究した作品である。
ここで最も重要なのは、感情の強さから義務の正当性が当然に導かれるわけではないことです。
恋情も友情も家族愛も、それだけで他者を支配する権原にはなりません。
しかし、それらの経験から、個人が自分の人生を方向づける新しい義務を引き受けることはありえます。
この二つを分けることが、自由な個人と社会的な関係を両立させる条件になります。
そして、この小説は一つの重要なことを示しているように思います。
人間は他者との関係を通じて自己を形成するが、その形成の過程で、自分の人生を他者に委ねすぎることもある。
ワルラスの文学的才能については、長い観念的な説明が作品の劇的な展開をしばしば妨げているという批判が十分に成り立ちます。
しかし、文学を通じて抽出しようとした一般問題には、後世の文学や社会理論にも通じるものがあります。
したがって、ワルラスが文学者として成功したかという評価と、彼が文学によってどのような問題を発見したかという評価は、分けて考えるべきでしょう。
そして第ⅩⅢ章以降について、私は一つの点に注目します。
これまでフランシスは、他者を愛し、その幸福のために献身することを通じて自分の幸福を見いだそうとしてきました。
しかし、エドゥアールが独立した人格である以上、彼にはフランシスの望まない幸福を選択する可能性もあります。
フランシスが、自分の幸福とは異なるエドゥアール自身の幸福を、どこまで承認できるのか。
この問題こそ、ワルラスが友情という題材によって試そうとした、極めて重要な社会的・倫理的問題ではないでしょうか。






























