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『みいちゃんと山田さん』――文的モチーフを統合するナラティブの失敗と画のモチーフの成功
はじめに――本稿の対象
本稿が主として対象とするのは、亜月ねねがSNS上で発表した先行版の完結構成である。
講談社の商業連載版は、先行版を基礎としながらエピソードを増補した作品であり、2026年8月1日現在も連載中である。したがって、以下で述べる「ラスト」「結末」「ナラティブの失敗」という評価は、原則としてSNS先行版に対するものであり、商業連載版の最終的な評価を確定するものではない。
1 「漫画を書く」ということ――『ゴールデンカムイ』との比較
作者の公表した制作説明と作品の構成に照らすと、『みいちゃんと山田さん』は、発達障害や福祉についての啓発を第一目的とするよりも、人物と出来事を配置し、リアル感のあるヒューマンドラマを漫画として書くこと を優先した作品と考えられる。
この点で比較できるのが『ゴールデンカムイ』である。
『ゴールデンカムイ』は、単純に「面白い物語」というより、漫画としての面白さを生み出すギミックに満ちた作品 である。基本となる筋は、金塊争奪をめぐる典型的な冒険活劇であり、少年漫画らしい強固なナラティブを備えている。しかし、その物語の周囲には、アイヌの生活文化や信仰、狩猟と動植物の知識、「チタタㇷ゚」などの食文化、明治期北海道の歴史、軍事・武器・戦争経験、奇人変人の人物造形、身体を使ったギャグ、グルメ漫画的な面白さなど、膨大な周辺情報環境が組み込まれている。
読者は、金塊争奪の行方だけを追うのではない。料理、狩猟、民族文化、軍事史、人物の異様な身体性など、次々に提示される情報とギミックを楽しむ。言い換えれば、物語の本筋が、膨大な周辺情報を載せて走る強固な運搬装置として機能している。
もちろん、そこで示されるアイヌ文化が、広い北方地域に存在した多様な集団を十分に描き分けず、あたかも一つの均質な民族文化であるかのように見せてしまう、という批判は成り立つ。それでも作品全体は、最終的に冒険活劇のナラティブによって回収される。結末も、主人公とヒロインの結び付きを含む、少年漫画らしい「お約束」の帰結を備えている。
『みいちゃんと山田さん』にも、人物、風俗、笑い、不穏さ、各話の引き、視覚的な異化などを、漫画としての面白さへ変換しようとする志向がある。
この観点に立てば、作品をめぐって「発達障害」として問題化されている要素は、先に設定された啓発命題ではなく、人物関係と社会的環境を構成する複数の要素の一つとして選択されたと考えられる。
ただし、それが制作上の出発点ではなかったとしても、完成した作品の中で単なる偶有的素材にとどまるわけではない。人物の行動、他者との関係、生活上の困難に反復して関わる以上、それが他の人物や出来事とどのように結び付き、作品全体にどのような納得感を与えるかは問われる。
ここで問題になるのが、文的モチーフと、それらを結び付けるナラティブである。
2 「物議」の先例――『透明なゆりかご』と『コウノドリ』
『みいちゃんと山田さん』をめぐる現在の物議には、先例がある。それが、沖田×華の『透明なゆりかご』をめぐる反応である。
『透明なゆりかご』は、産婦人科を舞台に、妊娠、出産、中絶、死などを扱いながら、原作では低頭身のデフォルメとギャグタッチを用いている。沖田×華自身も当事者性を公表しているが、本稿が参照した一部の「界隈」の受容言説では、その表現方法に厳しい批判が向けられた。
それに対して、同じく周産期医療を扱う『コウノドリ』のような作品は、強く推奨されやすかった。
ここには、単なる作品の質の比較だけではなく、語りの形式をめぐる選別がある。
『コウノドリ』は、医師を中心に据えた専門職的・医療的ナラティブを持つ。何が問題なのか、どのような医学的事情があるのか、専門家はどう判断するのかが比較的明瞭に整理される。そのため、医療や支援に関心を持つ「界隈」にとって、正しい理解へ導く作品として推薦しやすい。
これに対して『透明なゆりかご』は、当事者的・体験的・漫画的な視線から、笑い、戸惑い、残酷さ、未整理な感情を含んだまま現場を提示する。正しい受け止め方を専門家が最後まで説明してくれるとは限らない。
つまり、ここで起きていたのは、
専門家によって整理された語りは「丁寧な啓発」として歓迎されるが、当事者や現場の人間がギャグやデフォルメを用いて語ると、「不適切な表象」として警戒される
という構図である。
しかし、『透明なゆりかご』の原作漫画には講談社漫画賞の受賞実績があり、ドラマ版も高い評価を得た。一部の「界隈」による批判が、作品全体の価値を決定したわけではない。
その評価の原因を一つに確定することはできないが、本稿がドラマ版について注目するのは、実写化によって人物が生身の身体と「リアリティーのある顔」を得ながら、台詞による説明にすべてを回収しなかった点である。
人物の感情や出来事の意味を説明しすぎず、表情、視線、沈黙、間に語らせる。原作のデフォルメされた人物は、実写化によって必然的に生身の身体と顔を持つことになったが、その顔を説明の多さによって固定しなかったため、顔そのものが意味を担うことができた。
『透明なゆりかご』で、漫画から実写ドラマへの媒体変更によって起きたこの転換を、亜月ねねは一つの漫画作品の内部で行った。
3 画のモチーフ――ローゼ=ヴェヒトラーとオフィーリア
『みいちゃんと山田さん』における「リアルみいちゃん」は、隠されていた客観的な素顔を公開した場面というより、それまでの見え方を破壊する異化 と考えるべきである。
読者は、それまでのデフォルメされた絵によって、みいちゃんを無邪気で、滑稽で、どこかかわいらしく、保護されるべき存在として見ていた。そこに突然、異なる描画体系が侵入する。頭身、線、陰影、顔貌が変わり、それまで親しんでいた人物が別の相貌を見せる。
このとき異化されているのは、みいちゃんだけではない。読者自身の「見る行為」である。
読者は、新しい顔を見せられると同時に、
それまで自分は何を見ていたのか。 デフォルメされた顔と写実的な顔のどちらが本当なのか。 相手に対する感情が変われば、同じ人間の顔も違って見えるのではないか。
と問われる。
ただし、写実的な顔だけが「本当の顔」であり、それまでのデフォルメされた顔が偽物だったということではない。
同じ人物が、描画の形式と見る側の感情によって、まったく異なる相貌を現す。画が示すのは、人物の唯一の本質ではなく、それまでの描画体系では表に出ていなかった相貌と、読者がその人物を見る関係の変化である。
この画のモチーフを考えるうえで、エルフリーデ・ローゼ=ヴェヒトラーとオフィーリアという二つの比較軸を置くことができる。
以下の二つは、作者の直接的な影響関係を主張するものではない。画面が行う二方向の変換を記述するために、本稿が設定する補助線である。
ローゼ=ヴェヒトラーは、精神科施設にいた患者たちを繰り返し描いた。そこでは、患者は診断名や医学的類型としてではなく、固有の顔、姿勢、視線を持つ一人の人間として現れる。
亜月ねねがローゼ=ヴェヒトラーを直接参照したと考える根拠はなく、両者の間に直接の影響関係を想定する必要もない。
一方、亜月ねねは学生時代に法廷画の仕事を経験している。この経験は、制度的な名称や文章的説明の背後にある人物の具体的な姿勢や相貌を、画によって捉えるという本作の表現を考えるうえで、直接的な契機の一つになったのだろう。
法廷では、人物は「被告人」という制度上の地位や、罪名、供述、判決などによって文章的に把握される。しかし法廷画が捉えるのは、その人がどのような姿勢で座り、どこを見て、どのような顔をしているかである。制度的な情報の背後から、その人間の具体的な相貌が現れる。
ローゼ=ヴェヒトラーとの比較が、分類の背後から生きた個人の顔が現れる方向を示すとすれば、SNS先行版のラストに描かれる水中の身体は、オフィーリアの図像的系列との比較を許す。
オフィーリアは、水、植物、若い女性、狂気、死、沈黙、美しさを結び付ける、西洋美術史上の強力なモチーフである。『みいちゃんと山田さん』のラストも、みいちゃんの死を単なる事件処理の対象としてではなく、水中に横たわる女性の美術史的図像として定着させる。
したがって、この作品の画のモチーフには二つの極がある。
ローゼ=ヴェヒトラーとの比較によって捉えられる「生きている個人の顔」 と オフィーリアとの比較によって捉えられる「死んだ女性の身体」
である。
前者では、類型化された人物から固有の相貌が現れる。後者では、社会の中で雑然と生きていた人物が、死によって静謐な図像へ変換される。
一方は、生きている人間を分類から引き離して個体化する画である。もう一方は、個別具体的に生きていた女性を、美術史的な死の類型へ接続する画である。この二つは反対方向を向きながら、『みいちゃんと山田さん』の画面の中で共存している。
もちろん、オフィーリア的表象には、女性の狂気や死を美化し、声を失った身体を鑑賞物にするという、現代的には問題化され得る側面がある。
シェイクスピアの作品や、後世のオフィーリア表象そのものも、現在の倫理的・社会的基準から見れば問題を指摘できる。女性の受動性、狂気の美化、死体の美的消費などは、現代の「コンプライアンス」の観点から無条件に通過するものではない。
しかし、問題を含む図像であることと、画のモチーフとして失敗していることは同じではない。むしろ、その危うさを含んだまま強く記憶に残ることが、オフィーリアという図像の力でもある。
4 文的モチーフを統合するナラティブの失敗――『大日本人』との比較
一方、『みいちゃんと山田さん』は、文の側では結果的に失敗したと考えられる。
ここでいう文的モチーフとは、人物の性格や属性、反復される行動、生活上の出来事、他者との関係、場面同士の対照など、物語の意味を作る材料である。
ナラティブは、それらを時間、因果、対立、期待、反復、裏切り、関係の変化、結末による回収などによって結び、一つの長編として動かす構成である。
『みいちゃんと山田さん』に文的モチーフが欠けていたわけではない。
みいちゃんの性格、家庭、仕事、身体、金銭、他者との関係、山田さんの親切と苛立ち、周囲の欲望や搾取など、多数の人物的・社会的モチーフが配置されている。
失敗したのは、それらのモチーフ群を、冒頭から示された死の場面へ結び付けるナラティブである。
この失敗は、松本人志の映画『大日本人』と比較できる。
『大日本人』は、擬似ドキュメンタリー形式、冴えない主人公、巨大化するヒーロー、怪獣、社会からの冷たい視線など、局所的には面白い仕掛けを数多く持つ。CGによる視覚的な実験と、松本人志がテレビで行ってきた笑いの形式を、映画へ移す試みとして理解できる。
しかし、それを映画の尺で行うと、観客は個々のギャグや視覚的実験だけではなく、長時間の蓄積が最後にどのような意味を形成するのかを期待する。
ところが結末は、それまでに醸成された雰囲気や人物の孤独を十分に引き受けず、テレビ的なコントへ逸脱する。その結果、観客は単に「意外だった」のではなく、「白けた」。
作品の構成が読者や観客に形成した規範的期待に応えられなければ、作り手が個々の意図した表現を実現していても、作品全体として失敗し得る。
短いテレビのコントとして成立することを映画の尺へ引き延ばせば、途中の蓄積に見合うナラティブが必要になる。そこが弱ければ、個々のギミックが面白くても、作品全体としては冗長になる。
『みいちゃんと山田さん』も同様である。
作品は最初から、みいちゃんが死ぬことを固定している。この形式では、読者は「死ぬかどうか」ではなく、
なぜこの人物は死ぬのか。 それまでの生と死はどのような意味で結び付くのか。 冒頭で示された死を知ったうえで、途中の出来事をどう読み直すのか。
を追うことになる。
みいちゃんが生きている間には、仕事、生活、身体、欲望、失敗、親切、嘲笑、搾取、山田さんとの関係など、さまざまな場面が配置される。
それらは、一つ一つ独立したエピソードではない。冒頭ですでに死が示されている以上、読者は各場面を、その死との関係を予期しながら読む。
したがって、死を先に示す構成は、ナラティブを不要にするのではない。むしろ、途中の生の場面と、最後の死の場面との間に、強い関係を形成することを作品へ要求する。
ここで必要なのは、各出来事が死の直接原因になることではない。
みいちゃんがこのように生きたから、論理的・必然的にこの死に至った、と説明する必要はない。偶然の死を描くことも、不条理や意味の断絶を描くことも可能である。
問題は、なぜこれらの生の場面とこの死の場面が、同じ人物をめぐる一つの長編として配置されたのかを、読者が把握できる関係が形成されたかどうかである。
SNS先行版が最終的に、
人はあっけなく死に得て、生を一つの意味ある物語へ統合しようとする試みも、偶発的な死によって中断され得る。
という認識へ至ること自体は、一つの主題的結論として成立し得る。そこから生じる情感は、世俗的な無常感と呼ぶことができるだろう。
しかし、それは、意味への執着を自覚的に手放す生き方や、その先にある安らぎを示す仏教的な無常観ではない。
また、この認識を結論として掲げることと、それが人物と出来事の展開によってナラティブとして形成されていることは別である。
問題は、意味づけの中断が、それ以前に配置された人物と出来事の関係から構成されたのか、それとも諸要素を十分に統合できなかった後に、一般的な人生観として置かれたのかである。
意味の成立しなさを作品の展開によって構成することと、配置した人物や出来事を一つの意味へ統合できなかったことは違う。
前者では、登場人物や読者が生に意味を与えようとする運動と、その試みが偶発的な死によって中断される過程そのものが、作品内の人物、出来事、関係の展開として示される。
後者では、人物や出来事を多数配置しながら、その関係を十分に構成できないまま、「人生に意味はない」という一般論が結末に置かれる。そこでは、無意味さが表現されたというより、意味を作れなかったことが無意味という命題によって覆われたように見える。
ここでは、「意味形成の挫折」の二つの意味を分けなければならない。
一つは、作中の人物が自らの生に意味を与えようとし、その試みが死や偶発的な出来事によって挫折することである。
もう一つは、作品が、配置した人物と出来事をナラティブとして統合し損なうことである。
前者は、作品によって描かれ得る主題である。後者は、その主題を作品として構成することに失敗したという批評的評価である。この二つは同じではない。
SNS先行版が前者を企図していた可能性はある。しかし、読者が後者として受け取り、最後に「白けた」のであれば、ナラティブとしては失敗したと評価してよい。
この「白け」は、救済がなかったことへの不満ではない。発達障害について正しい説明がなかったことへの不満でもない。
冒頭の死の提示、長編という形式、同じ人物への継続的な焦点によって、読者の側には、
この人物の生と死は、どのように結び付いているのか。
という規範的期待が形成される。
SNS先行版の文の失敗とは、その期待に十分に応えられなかったことである。
みいちゃんという人物を同じ人物として描けなかったのでも、人物の内面や本質を表現できなかったのでもない。
文的モチーフとして配置された生の諸場面を、冒頭から示された死の場面へ統合するナラティブが、長編として形成された期待を支え切れなかったのである。
5 ナラティブの失敗と画のモチーフの成功
したがって、『みいちゃんと山田さん』の評価は、成功作か失敗作かという一語では足りない。
SNS先行版には、
が同居している。
特に重要なのは、画の成功がナラティブの失敗を補償するわけではないことである。
「リアルみいちゃん」の顔が強烈だからといって、なぜこの人物の生と死が一つの長編として配置されたのかが説明されるわけではない。ラストの水中の身体がオフィーリア的な美しい図像として成立していても、それまでの人生と死の関係が、物語として十分な納得感を持つとは限らない。
反対に、ナラティブが失敗しているからといって、画のモチーフまで無価値になるわけでもない。
むしろ、この作品の特徴は、文と画の成否が一致しないこと にある。
文の側では、生の場面を死の場面へ統合するナラティブが、長編として形成された期待を支え切れず、読者を白けさせる。
一方、画の側では、デフォルメされた人物から「リアルみいちゃん」を出現させることで、それまでの見え方を破壊し、読者と人物との関係を組み替える。さらに最後には、みいちゃんの身体をオフィーリア的な図像として記憶へ残す。
文は、生の諸場面と死の場面との関係を長編として十分に支え切れなかったが、画は死の場面を強く記憶へ定着させた。
画の成功は、みいちゃんの隠された「本質」を暴露したことにあるのではない。同じ人物について、それまでの描画では現れていなかった相貌を提示し、読者がその人物を見る行為そのものを異化したことにある。
このコントラストを踏まえると、SNS先行版の『みいちゃんと山田さん』は、次のように評価できる。
『みいちゃんと山田さん』は、啓発上の正解を提示することより、人物、風俗、笑い、不穏さ、情報、構成上の仕掛けを漫画としての面白さへ変換することを志向した作品である。その点では『ゴールデンカムイ』と比較できる。しかし、『ゴールデンカムイ』を支える冒険活劇ほど強いナラティブを持たず、豊富に配置された文的モチーフを、冒頭から固定された死へ十分に統合できなかった。『大日本人』と同様に、長い形式が形成した期待を最後に回収できず、ナラティブとしては結果的に失敗した。一方で、ローゼ=ヴェヒトラーとの比較を許す生きた個人の顔から、オフィーリアとの比較を許す死の図像へ至る画のモチーフは、独自の異化として成功している。
現在の「物議」が、発達障害表象の適否だけに集中すると、この不均衡は見えなくなる。
『透明なゆりかご』より『コウノドリ』のような専門職中心の物語を好む一部の「界隈」の反応と同じく、正しい説明や専門家的ナラティブだけを作品へ要求すると、漫画がどのようなギミック、表情、異化、図像によって成り立っているのかが見落とされる。
SNS先行版の特徴は、まさにそのコントラストにある。
漫画としてのギミックと文的モチーフは豊かである。 画のモチーフは成功している。 しかし、それらを結末へ統合するナラティブは?
なお、商業連載版は、先行版を増補しながら進行している。したがって、商業版が完結した時点では、生の諸場面と死の場面との関係が再構成されたかを、あらためて検討する必要がある。
まだ終わってないので、結論は保留。
私がこの感想文を書こうと思ったきっかけは、かなえ先生にある。かなえ先生が「悪意」という言葉を使っていたからである。私はそれが何のことかよく分からなくて、
「あぁ、そうか。かなえ先生は法学部出身だから―ただし、心理の方をたくさん勉強されたということなのだけれど―、美大出身で油画を専攻した作者とは、学部で訓練された捉え方が違うのかもしれないな」
と思った。このとき、
「その学習動機は、発端として消失点となって、あたかも最初から自分はそのような考えを内在化していた人間だと思い込むことが、『学習』のひとつの効果ではないか」
と私は思った。 そして、個々の学習過程で扱う文のモチーフと画のモチーフは違うのかもしれない、と思ったことが、この感想文を書こうとした動機である。
私は、勝手な解釈ではあるが、作者には共感していた。
ちなみに、沖田×華さんのファンでもあって、『透明なゆりかご』『お別れホスピタル』は全巻購入し、『不浄を拭うひと』はKindleの読み放題プランで、八割は読んでいるかな。 『コウノドリ』は読んでいないけれど、ミュージカルの『レ・ミゼラブル』は毛嫌いしている。同じく主演を務めたヒュー・ジャックマンの『グレイテスト・ショーマン』には感動したけれど――事実と異なることは承知しつつ。
要は、ロマン主義が近代化を駆動させてきたことは認めるけれど、その基本的な構造が「宗教的」―あるいはキリスト教的、法学的には「キリスト教の遺産」―であるから、警戒している。私が、「共産主義は制度としては民主主義だからこそファシズムだ」というのも、「キリスト教の遺産」を考える議論を継承してのものである。
上でいう「界隈」は、コミュニストに限定せず、いわゆる「リベラル」寄りな人たちと「思しき」人たちによる「騒動」を指している。 「界隈」と「騒動」は、厳密には意味がずれる。しかし、「界隈」が会話で成り立っているとき、「騒動」は、この会話の傾向を説明している。 要は、「『騒ぎ立てて』何かをかき消そうという人たちが、なんか居るよね。辺野古でも」ということである。
いや、辺野古を誤魔化すために、こちらで騒いでいるという意味ではない。
辺野古に関して言えば、純粋な法律問題を政治的なイシューにすり替えることを、なぜか、初速だけ異常な速さで―つまり爆発的な勢いで―やる人たちがいる、ということである。そして、やがて常識的な線に収まる。 というか、法制度は、騒いだところでどうにもならない。そういうとき、遺族が無駄に傷つくさまを見ることになる。健全な法社会から見れば、そのような「病態」を見ることになる※1。
ひとやすみ
えーと、なんだ。 そう、見慣れた「爆速過程」を、また見ているのだけれど、これが法律問題なら、政治的、あるいは運動的に「かき消せる」ことは「何一つ」ない。なぜかリベラルは、それが可能だと思い込んでいる。 ただし、オピニオンは大事ですよ。
件のエックスを見ると、なるほど、先行漫画では、文のナラティブも準備されていたのかもしれない。た だ、こういう言い方はよくないのだけれど、若いね。どうしても。
知識が躍っているよね―ただし、原作者がほかにいたんでしょ。作画を担当したのであって。 「知識が躍っている」と言うときの心算は、
ということである。ただ、作者は、やはり美大出身というところで、原作を作者なりに咀嚼したのかなと思う。
それが「画のモチーフ」であると思う。
※1 例えば、「平和学習」なんて、義務教育において、ならびに義務教育を終えた後も、中等教育機関でカリキュラムに沿って主権者教育として行うことは、当たり前である。日本国憲法が平和主義を採っており、社会人の養成が学校に期待される社会的役割なのだから。ただ、その「平和学習」が、「学習」として健全でなければならない。 こんなことは、ある意味、大学の教養課程と同じで、その方法と内容に関して、標準的な過程が準備されるものである。特に初学者に対しては、教えられる内容が自由な検証に堪えられるように、総覧的、カタログ的、俯瞰的、彼岸的※2であることが求められる。
※2 「彼岸的」とは、なかなか学習過程では聞き慣れないが、ヘーゲルの語彙である。 つまり、カントに対する批判には当時の社会文脈があって、そこには、理性的な個人主義が生み出す、心的な葛藤がある。そういった意味で、辺野古の運動も――運動は、そもそも動機が問題になるので――ヘーゲル主義に帰着すると、私は思う。
ヘーゲルは神学者である。
もっと言えば、彼らは独特な未成熟さを抱えていると思う。 ただし、運動論に基づく社会構成は、それなりに構築されているので、ある程度、その構成的意味を知らないと、批判が空振りしてしまう。 例えば、彼らの団体を一般の会社と同じだと思うと、「そうではない」としか言いようがない。財産構成がそもそも違うし、権利能力も同じではない。したがって、責任能力の配分も同じではない、と思う。 私が「オープンエンド」というのは、そういったことなのだけれど、遺族の会見を拝見すると、「やっぱり学校の責任に行き着いたかな?」というところである―思いは、その会見で尽きることはないだろうけれども。学校は法律上の責任が明確ですからね―もちろん、船長の個人的責任は、別途ありますけれど。
それ以上のことに関しては、法制度的には「挑戦的」な領域になる可能性があるかな、と思う。ただ、統一教会問題でもそうでしたが、今は結構、社会が動いているので、こちらでも動く可能性はあるかなぁ、といったところ。統一教会問題も、団体の問題だったでしょ?
へー。すごいね。なんか、文学研究みたい。
いや、これってね、100年前くらいの議論。日本で言ったら、『小僧の神様』だよね。志賀直哉はもちろんエリートだったから、教養として、海外でも似たような話柄ってあったのだと思う—というか、確か、あったんじゃなかったかな。それが志賀に影響をあたえたかどうかは、とりあえず、置くとしても。
その後は、優生学への批判も出たし、ナチスの経験もしているので、って文脈が付くだけで。
エミール・ゾラ - Wikipedia
そうか。こういった方向では考えてなかったな。なるほど
13歳の時、小児性愛者の中年男性に薬を盛られ、強姦の被害に遭う。19歳の時、母はエマに英国へ帰り一緒に住むよう説得したが、エマはそれを拒否し、ロンドンの祖母の家に住んだ。20歳になったある日曜日、ダイヤモンド商の男に声をかけられたエマは、誘われるままに酒屋に入り、そのまま泥酔した後姦通され、男への憎しみと自らの魅力を認識するようになったとも言われている。この出来事がエマにとって栄光と破滅の始まりとなった。エマはその後祖母の家を出て、しばらくロンドンで自活の道を探していたが、やがて娼婦となり、幾人かの富裕層の男性と出会いを重ねることになる。彼女はそれなりにかわいらしく、社会性や機知に富み、慎重でもあったため、男達の中には単なる夜の関係以上に彼女に興味を抱く者も現れた。
コーラ・パール - Wikipedia
へー。私は、基本的に「知的障害ではなく、発達障害―就中、学習障害」だと思っていたけれど、モデルの方は作者が聞いたところでは(そのようなことで嘘をつくとも思えないけれど。)そういうことだったんだねぇ。申し訳ない。