1954年 十二人の怒れる男,1989年 評決のとき

この映画はアメリカにおける法定ドラマの原型を作っただろうか。
自分はトム・クルーズの『the Firm』で気付いたのだったか、👇に言われているようなことをよく見るような気がする。

いったん、8番陪審員の動機や目的は無視して、彼の組織内行動にのみ注目してみましょう。すると、この主人公は「正義の仮面を被った策士」ととらえることもできるのです。
審議の流れを振り返ると、最初に「有罪」だとする同調行動が起きますが、8番陪審員が議論を混沌・葛藤へと導き、最終的に「無罪」で一致するという逆転現象が起きます。そしてここが大事なポイントですが、「無罪」に至るプロセスでも、実は同調行動が起きているのです。

『十二人の怒れる男』に学ぶ"正義の少数者"のリスク|人事は映画が教えてくれる|リクルートワークス研究所 

十二人の怒れる男

十二人の怒れる男

 

 

自警的・私的復讐を肯定する正義は裁判手続よりも手っ取り早く効率的に見えるけれども、まともな人はそのような正義を現在の司法制度に代えたいと願ったりしない。それなのに、「評決のとき」がその感情的レベルで主張・肯定しているのは、私的復讐なのである。私たちは原始的な正義の観念にしたがって行動することが良いことであると思ってしまいがちだし、そのような物語はドラマの中では比較的害の少ないものかもしれない。しかし、現実世界ではこの種の行動は混沌と無法を招くだけである。アメリカ法の世界では、「陪審無効」?"jury nullification"という法律用語がある。 jury nullificationとは、陪審が、常に法を正しく適用しない訳ではないのだけれども、ある場合に特定の事件について陪審が正しく法を適用しないことをいう(O.T. Simpson事件などの場合)。ヘイリーの事件は、おそらく、このjury nullificationと見るべきで、私的復讐の正義を心無くプロモートしている訳ではないのかもしれない。 Berets at 104.

ジョン・グリシャム著『評決のとき』の研究