六樫五猿

「自己言及」について、面白いツイートを発見した、続き。

サヨ「自分以外を十把一絡げ」
ウヨ「自分含めて十把一絡げ」

という「ポンチ絵」を、もともと採用していたのであるが。
このツイートのやり取りは、まさに、リベ(サヨ)とホシュ(ウヨ)を戯画的に表現していて、それがまた、興味深い(だから、「トランプ現象」で、ホシュによる(と言っても、アメリカの保守思想をまじめに考えると、ややこしいが。)、「俺たち馬鹿じゃないぞ革命」(もしくは、「カントールが馬鹿じゃないなら、俺たちだって馬鹿じゃないぞ革命」))
結局、内在的には「決定不能」なとき、外在を規範的に受け入れるならば、「いつ」受け入れるかの違いで、予期に関しての態度の違いとも言える。
わかりやすく言えば、

リベ「そんなこと聞いてねえぞ」
ホシュ 「場面で決めね」

であって、「場面で決める」ことを最初から言うか、とおうことが、"テキスト上"は問題となり《得る》(或いは、この逆から言及して、《べき》ーここにも、遂行的な構造が見え、二重否定によって、可能な領域を選んでいるのである)が、これがテキストの形成的意味か、確認的意味か、ということで、これが確認的意味ならば、問題とならないのである。

 👇正しくウヨな映画

グラン・トリノ (字幕版)
 


【追記】

agora-web.jp


そう考えると、漢字がエイゼンシュテイン・モンタージュ(セルゲイ・エイゼンシュテイン - Wikipedia)を生んだというのは面白くて、漢字って象形とか形成とか発音とか会意とか、リベは、文字って感じで、ホシュって、音とか画とかなんだろ、そんな感じ。
キリスト教なんか、「顔」とかvoiceとかcallingとかだしね。

村上春樹のやっていることって、おそらくこの延長だよね。画を言葉で説明するのではなく、画の持つ直観的イメージをそのまま、言葉のように操作する。最近で言うと、画像検索機能のような、複雑な情報を持つ画を画としてそのまま理解しようという、謂わば、画のテキスト化で、漢字ってもともとがそういう側面があったし、ボブディランもそういうところがあって、いやそれ以前に、寓話やマジックリアリズムもそうで、それがプロパガンダではなくアートであるところが重要だと思うけれど(だから、ボブディランが反体制の旗幟と言うのは、本人にしてみれば、そりゃ不本意だろうなって。あくまでアートだし、もっと多様な意味を含むよね。それは直感的であるがゆえに保守的であるかもしれないし。今では、反体制の内にある保守性なんて、疑いようのないことだし。)しかしそれにとどまらないところが漢字の面白いところで。
だからと言って村上春樹を"直ちに"評価するのは奇妙なんだけれど、こういったことは、それこそン百年前からやっていたことで。やっぱり、ディランもそうだったけれど、アートの域に達するべきで。

電脳戦が始まったときに、コンピュータ対人間という見立てに、「中間項」を置くと、すなわち、小池重明という「サヴァン」を置くと、よりわかりやすいだろうと思ったのであるが。

東ロボ君の挫折を見るにつけ、コンピュータ対人間の間に、村上春樹を置くのもアリかな、と思うところである。村上春樹が解明できたら、いよいよ、コードがノーベル文学賞の授賞対象となるかもしれない、と思うと、楽しい。

漢字であるが。
云々を伝々と、言い間違えたのか、見間違えたのか、そういうことがあって、字面を見ると、人偏があるかないかで、なるほど「伝える」とは人を介して話や言葉を他者に繋げることか、と思ったのであるが、同じ文字を援用して意味を広げたと考えるのは誤りで、云は雲のことで、伝は糸巻きと右手に人偏を付けたものらしい。じゃあ、まったく見当違いか、というと微妙で、雲と言っても、立ち上る雲のことであるが、どうもそれが回転しているさまを表現しているらしく、一方糸巻きも、糸をぐるぐる巻いているその現況のことで、中心を持ってその周囲を回転する様のことであるらしく、それが人を介すると、伝になるらしい。云々というと、確かに、煙に巻かれたようでもあるし、〇〇伝、と言うのを見ると、ほんまかいな、と疑念を持つことも珍しくはない。ちなみに、言うことに関する様々な言葉の一つに「喋る」もあって、喋々とは、チョウチョウと読むらしく、ペラペラと話す、言葉を継ぐ様で、ペラペラとは薄い木片(板)のことで、世は三枚の葉でその下に木があると、そういう意味を作るらしく、要は、内容のなるかないかわからないことが次から次に口をついて出てくる、ということになろうか。ウンヌンーデンデンーテフテフと繋いでみて,ウンウンそれでよいではないか、と、N(ネガティブ)な感情を取り除いたのである。

👇逆から行くと、ちょっと違う

aissy.co.jp