カント以降における物理学者アインシュタインの発明主義と数学者フォン・ノイマンの発見主義                      「ギリシャ哲学リバイバル後」のヨーロッパの「人間がサイコロを振る世紀」


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哲学における6大勘違い

  1. シェークスピアの「生きるべきか、死ぬべきか」
    —善き死を巡る(古代の物語の)キリスト教的問答へ展開。キリスト教の擁護であって、答えは決まっており、そのニュアンスを日本語に翻訳するのはそもそも難しい。比較対象は、24年後に生まれたホッブスが著した『リヴァイアサン』。
  2. デカルトの「我思うゆえに我あり」
    —近世的神学観(直観的実在観)に根ざすテキスト(シンボル操作)に基づく近代的論理学の先駆け
  3. カントの「認識論的展開(コペルニクス的転回)」
    デカルトの実在観(名辞論理)を克服する、主語が従属する述語的展開
  4. ニーチェ
    ルネサンスヘブライズム、ヘラニズム、ゲルマニズムの調和)の完成としての「近代」以降のローマ主義を批判するギリシャ主義
  5. アインシュタインの「神はサイコロを振らない
    —人間による発明主義の(皮肉な)宣言
  6. ゲーデル不完全性定理
    ヒルベルトプログラムの否定的解決による数学の可能性の展開(計算主義を批判して論理に従属する計算を指向する概念数学、その裏に在る数学におけるギリシャ主義を標榜したヒルベルトとその学統のその後の発展)

アインシュタインノイマンの微妙な関係は、政治的立場(アインシュタインはリベラルで、ノイマンゲーデル保守主義者であった。)と、ヒルベルトを巡る、従って、ギリシャ主義を巡る、従って、カントを巡る、物理学者と数学者の或る種の緊張関係を裏に持っていたと思う。


デカルトもそうであるが、)カントが理解されないのは、アリストテレス哲学の受容史を欠くからとしか言いようがない。

ガザーリーライプニッツ、就中、「認識」「本質」「本性」「偶有性」「充足理由律」(例えば、三角形の本質が「三角形そのもの」と見なせるばらば、「三角形の内角の和は2∠R」であるとか「平行でない線分で囲まれる図形」であるとかは、本性を指す。本性とは本質的な説明であって本質そのものではなく、それは本質とはそれ以外に説明のしようのないことであるからである。本性とは本質にかかわると思しき内容に関して事後的が説明を加えられるときに、その内容のことであると理解できる。)、それに加えて名辞論理と命題論理(例えば、因果的論理は、原因と結果を説明するが、論理に時間を加えたものとみなされる)の理解が必要なのだろう。

カントの語彙に振り回されすぎな感が否めない。

そもそも「認識」はカントの発見した語彙でもなんでもない。
当時は、アリストテレス論理学の完成が目指されていたのに過ぎないのだ。

その経緯に於いて、神学と哲学の関係が整理され、心理学と論理学が分別され、数学と科学に革命が起きることとなったのである。

「普遍的」であることが強調されるのでわかりにくいが、要は、ヨーロッパ大陸の精神史、内容もそうであるが、イスラム哲学者の活躍やルネサンスなど事件の経緯を説明する歴史の側面が軽視されている。日本人は基本的にそれを共有していないのだから、議論の前提を有していないと言える。

だから、説明が晦渋なわりに、習合仏教的な観念論に落ち着く(日本における近代史において、実際に、新仏教が興隆して広範な影響を与えたが、戦後の吉本隆明の内容のなさなどもこれに起因しているだろうと思う。吉本の無内容は、習合を通じて日本流に考える工夫程度の話で、何番煎じかすらわからない)。