もっていない。高い。

持っている。読んでいないが。

内気なゲーデルが心を明かせる数少ない人だった

竹内外史 - Wikipedia

石川県関係者で、あのゲーデルの最後の弟子である。
上杉とイェリネックの関係を彷彿とさせる。『クルト・ゲーデル先生を悼む』という文章が『ゲーデル』に載せられている。人付き合いがなくなったイェリネックは晩年、上杉が訪ねて来るのを楽しみに待っていたそうだ。上杉はイェリネックの葬儀で弔辞を読んだ。死を意識していた病弱なゲーデルが、晩年、毎日竹内の下に訪れ熱心に議論したそうである。それまで1時間30分以上は議論しなかったが、はじめて2時間を超えたのは、ゲーデルにとってどういう意味を持っていたのか。

オーストリアのクルト・ゲーデル・ソサイアティーでは「ゲーデルの学生で友人」と紹介されている。

kgs.logic.at

 

官報 1942年04月21日 - 国立国会図書館デジタルコレクション

昭和17年第四高等学校(理科乙類)入学。

人事興信録 第15版 下 , 1948 - 国立国会図書館デジタルコレクション

官報 1950年07月20日 , 昭和25年 - 国立国会図書館デジタルコレクション

国立公文書館 デジタルアーカイブ

義父である飛永甚治も教師だったようである。

飛永甚治ヲ長岡高等工業学校助教授ニ任用シ初任判任官俸給制限外支給ノ件

竹内釥次郎と竹内外次は関係があるのだろうか?竹内外次で検索したら、竹内外次郎で竹内釥次郎がひっかかった。竹内釥次郎は石川県士族で、やはり教師である。

石川県立金沢第一中学校一覧 大正4年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション

竹内外次郎は小学校教員である。関係があるのだろうか?

益智社は県内企業だっただろうか?

webtaiyo.com

小学暗算書 答 訂正2版 , 竹内釥次郎 編 , 益智館 , 明22.3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

教育公報類纂 , 竹内釥次郎 編, 奥田則直 閲 , 広文堂 , 明19.12 - 国立国会図書館デジタルコレクション

webcatplus.nii.ac.jp

 

最近は日本を代表する論理学者である竹内外史の論理哲学に関するプロジェクトを進めており、その哲学的な背景(特に西田幾多郎の哲学)を掘り下げつつ全体像を描くことを目指しています(ロレーヌ大学アンドリュー・アラナ氏との共同研究)。

(略)

より具体的には

(略)

(IX) 竹内外史の論理思想(無矛盾性証明の意義、形式主義の哲学)

秋吉 亮太 アキヨシ リョウタ (Ryota Akiyoshi)|researchmap

 

https://www.researchgate.net/profile/Ryota-Akiyoshi

https://www.researchgate.net/publication/332874620_Takeuti's_proof_theory_in_the_context_of_the_Kyoto_School

自覚に於ける直観と反省 , 西田幾多郎, 大正6 - 国立国会図書館デジタルコレクション

ヒルベルトの数学の師(ケーニヒスベルク大学)

mathshistory.st-andrews.ac.uk

ハインリッヒ ウェーバーとは? 意味や使い方 - コトバンク

Carl Gustav Jacob Jacobi - Wikipedia

(ティボルト→ドリクセン→)カール・グスタフヤコブヤコービ→オットー・ヘッセ→ハインリッヒ・ウェーバー→ダフィット・ヒルベルト

ゲーデルには、ヒルベルトの影響と、ブラウワーの影響と、リーマンの影響が見られる。それは数学実在論と数学認識論を同時に、構成主義(カント―ルの延長。)と超越主義(リーマン的な意味で解析的。)をただひとり同時に扱えたたぐいまれな個性に帰結したらしい。完全性定理のオリジナリティーに就いて、直前まで迫った  に対して言い放つ事が出来たのは、この方法論について、絶対の自信があったからだろうと思う。

ゲーデル(とフォン・ノイマン)が世界に冠たるドイツ数学の集大成を成し遂げたことはあまり言われない。
これには少し例外があって、ゲーデルは、彼の有名な不完全性定理のうち、第二不完全性定理については、証明していない(アイデアを得ていたが、完成させることができなかった)。ガウスと並んで称賛される、数学史上もっとも多産な天才、それでいて、数学史においては「いい加減」で有名な(ノイマンが「数学者」講演で言及した「」とはオイラーのことだろう。)、オイラーの方法が、ゲーデルの完璧主義、というよりむしろ、  な質とは合わなかったのではないかと思う。ゲーデルは「いい加減」なことが我慢ならないのだ。

ωωω

は実にオイラー的な構成だったのではないだろうか。よくわからないが。

アルバート・アインシュタインは、フランスからロシアへの流れを再び手繰り寄せたワールドワイドな意義が認められるが(確率についてはロシアで花開いた。)、もう一人の「ハインリッヒ・ヴェーバー」、指導教官と成ったハインリッヒ・フリードリヒ・ヴェーバーには苦労したようである(ハインリッヒ・フリードリヒ・ヴェーバーはマクスウェルの方程式を講義しなかったそうである)。ハインリッヒ・フリードリヒ・ヴェーバーの師がエルンスト・カール・アッベで、アッベの師と言えるのか、「影響を受けた」のは、ベルンハルト・リーマンやヴィルヘルム・ヴェーバーらしい。ヴィツヘルム・ヴェーバー

ゲッティンゲン七教授事件 - Wikipedia

で失職した。

一般的に、ゲーデルの成果として、むしろアインシュタインとの関係で、回転宇宙をほめそやす向きがあるが、ゲーデルにとってそれほど意義深いとは思えない。
たまたまリーマン幾何学の先にそれがあっただけではないだろうか?

ちなみに、ゲーデルを称賛してやまなかったノイマンは、アインシュタインとは微妙な関係だったらしい。これは政治傾向の違いとも受け取れるが、純然たる物理学者で、道具として数学を利用したアインシュタインと、数学者として、哲学的にも考えたノイマンの違いではないかと思う。「理系」と言っても、物理学者と数学者が仲が良いとは限らないのだ。ましてやヒルベルトの弟子であり、師匠を尊敬してやまなかったノイマンにとって(傲岸なノイマンがその生涯において称賛を惜しまなかった2人の数学者が居る。一人はゲーデルであり、一人はヒルベルトである。)、師匠と発見の先取権を争ったアインシュタインに対して何を思ったか。

いずれにしても、乱暴に概括するならば、ゲーデルがおこなったことはルネサンスであって、ドイツの「ギリシャ病」がヒルベルトにおいて最高潮に達したとき、要は、リーマンを嚆矢としてデーデキントで明らかにされた「概念(数学)」とは、ギリシャ人たちが採った立場である、「言明される論理」の付属説明として用いられる「数の手続きで明らかになるメカニズム(シンボル操作であるが、必ずしも「数式」である必要まではない。歴史的に見れば、表上の操作でも十分な場合がある。鍵となるのが、統一された操作が対比され得る対象と成ることであり、そのための特別な記号が、言語操作の代わりに、法として付義—義務付けられる;命令—されることである。このとき、表もひとつの「図」であるが、もう一方の「図」である、コンパスによる作図とは性質を異にする。要は、計算とは、作図と対照的な作業だったのだ。だから、コンパスのような道具立てがある)。また、だから、ただ三角形がそこに描かれてあっても何も意味をなさないのと同じことが、計算にも起こる」を独立に措定する立場である。まずは「説明されなければならない」と強く要請する立場であるが、その帰結として「言明される」ことを確信する立場である。この経緯を持たないことは、単に「在る」と認めなければならない。この立場が、それまでの、クロネカーの計算主義を鋭く批判した。

この点、カントールは微妙な立場で、彼は神学的な立場にたった超越主義者だったため、方々から批判された。無限を扱うのは、何かしらの超越を考えなければならないが、デカルトの時代でないこの頃には、それが神学であることがもはや許されなかった。デカルトは明らかに近代人ではなかったのだ。

そこで概念数学者たちはギリシャ論理の帰結として、要は、媒介的な中間項の(帰結へ向かう)過渡的な操作が本質と見て(存在そのものを本質と見る立場から、操作こそが本質と見る立場への転換;これがヒルベルトの謂った「数学的認識論」だと思う。存在は操作できればよく、操作対象である)、ありふれた有限の原因から操作的な無限の構成へ舵をきって「操作に超越が混じらなければよい」形式、すなわち「「操作」とは「操作できる」ことであるとき、「操作できる」とは何かは、その操作によってえられる具体的な「果実」で「判断」される形式であるとき、その形式」の完成を模索し始めた。「判断」が味噌で、「果実」の中にヒルベルトの「濃度」もその範疇に入るのは、それが操作対象としてふたたび対比されうるからである。すなわち、無矛盾な形式を計算を従属させて論理的に目指し始めた。ギリシャ人の作法である。

そこで意義を唱えたのがブラウワーであって、単純な話、計算の他にも作図があるじゃないか、ということである。作図は言葉から生み出されるのではなく、図を説明するために言葉が援用されるだけであり、要は、図先行論であると謂える。しかし、一般的な解説では、これは相対性理論によってそのままでは維持できなくなったため(物理的時間と物理的空間の無差別性)、そもそもカント主義者であったブラウワーは、幾何的直観は諦め、時間的直観を維持する方針に改めた。ここで「時間」は「物理的時間」を必ずしも意味しないのが鍵である。要は、経緯を持つじゃないか、ということであって(数学者はTIMEとTIMESを厳密に区別したがるのは「連続」と「離散」を同じに出来ないためであるが、いずれにしても、ヒルベルトの言及した「繰り返し操作」などの「経緯」を持って、物理的時間を直ちに意味しない。)、これだけだと、ヒルベルトと何が違うのか不思議であるが、説明されることが、記述的であるか(客観的であるか)記述的でないか(主観的であるか)の違いであり、記述で十分説明可能であるとするのがヒルベルトであり、不十分であるとするのがブラウワーである。記述では不十分であるが、十分「わかる」ということである。

要は、記述されるシンボル操作を説明の「原器」と見るか、それを行う人間自身を「原器」と見るかであって、実はある意味で(人間の意味と意味の獲得を考えて)「神学的」なのであるが、ヒルベルトの神学的立場を避けている。神学をわざわざいう必要がないのは、「わかる」利益に着目して功利的だからである(ヒルベルトを責めるのは国である、たかだか人間が何かを発想するのは何かを類推することでしかない。人間の認知能力には限界があるのだ)。(人間も記号もひっくるめて)実在凡てに義務的である意味での、古典的な目的論を必要としていない(オイラーの関数論はデカルトの作図にあったギリシャ的な目的論を批判していた。数学は無目的であるとの功利的な革命だったのだ。目的と規範的な利益:ルールの果実は分けられるとの主張である)。そういった意味で近代的な議論である。

ともあれ、ブラウワーの主張の意義が曖昧だったので、弟子のハイティングが整理した。要は、矛盾じゃないかと。ここに、無限と矛盾が揃ったのである。ただ弟子は判断を計算に求めて、演算記号に矛盾を含めることで、師匠の主張(排中律の排除)を明確化した。それに師匠は不満を表明した。幾何的、いや新しい幾何学から得られる果実でないためである(実際にブラウワーは位相幾何学創始者である)。その割に、直観主義論理ですべての数学を表現しようとした。経験したことの説明的なレベルで許容されるからである。要は、説明は、後追いである。「はじめに言葉ありき」と宣言しない。ひとつの構成主義である。その経緯を認めることだけが最初にある。経緯が対象を事後的(経験的)に求めただけであると言いたいようだ。対象は経験であって、本質ではない。

ヒルベルトも(もちろん)構成的であろうとしたが、「初めに自然数ありき」、いや、厳密には、初めに0から9の高々数えられる程度の数ありき、としたため※、結局は、失敗してしまった。数学的認識論を主張したのがヒルベルトであったはずが、何か、おかしなことになった。排中律を認めるか認めんないかの問題の本義が、実は、数学的実在と数学的認識たる評価の混在を指摘することに在ったためである。実在の述語表現である「ある」「ない」がすでに評価だったからである。この再帰問題に躓いたのではないかと思う。

※よりまともな説明では「数学を無意味な記号の配列とみて、それについての超数学を新しい算術として展開する」(P.12,ゲーデルについて,『ゲーデル』)

だから、ゲーデルはたったひとつの数学的な方針を堅持した。それを竹内は知っている。無限と矛盾の二重性の利用である(無限と「無限」矛盾と「矛盾」はともに、操作結果であるとともに、評価対象である。対象である限り、操作対象である※)。ゲーデルの着想の源流には実際にラッセル=ホワイトヘッドの失敗があり(ゲーデルは詳細に研究した。)、しかし、それを「失敗しないように」応用したのであった(P,。

これは実のところ、解析学の数学的基礎付けである。

ゲーデルの業績をまずはじめに評価した、評価できたのは、ヒルベルトの学統であった。ヒルベルトであり、ノイマンであり、ベルナイスであった。
そして、実のところ、ゲーデルヒルベルト・プログラムを否定的に解決したが、ヒルベルトの数学の方向性を否定したわけではなかった。ヒルベルト・プログラムだけでは十分に説明できないことを強調したのであった。ゲーデルの論理学には、ヒルベルトの方法論を含んでおり、まったく別のことを主張したわけではなかったからだ。ヒルベルト・プログラムには「限界がある」ことを示したのである。

現に、第二不完全性定理を証明したのは、 であった。

※歴史的経緯としては、超越論を支持する立場と構成主義を採る立場は分かれていたところ、

 


どうも晩年のゲーデルは大いに誤解されていたようで、そのことを弟子の竹内も嘆いている。彼が変人だったのは、竹内自身がよく知っていることであったが(竹内の紹介状を指導教官であったゲーデルに依頼したところ、竹内の論文を蒐集して、一から全部読み始め詳細な分析にとりかかったため、数カ月たっても書いてもらえなかったそうである。)、麻酔を嫌がったそうである。

フォン・ノイマンの最期が念頭にあったのではないか?

極めて頑健だったノイマンと異なり病弱だったゲーデルが、死を口にしたのは、年と 年の2度あったそうである。

私たちが彼らの生涯で見落としがちなのは、彼らが亡命ユダヤ人だったことである。