話せば長くなるが、それにはそんなわけがあった

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ゲームとしての言語-ソシュールとウィトゲンシュタインについて- | CiNii Research

に倣って言うなら、「  としての言語」であって、

ソシュールの本質的意義は、おそらくギリシア哲学(ルネサンス)批判で、概念=実在を否定(概念≠実在)したのではないかと思う。

反対に謂うと、デカルトが理解されないのもこれで、デカルトは概念=実在をアリストテレスから引き継いだ。すなわち、「我思う ゆえに 我あり」と言えることが「思う」と「ある」の概念を含んでいるなら、すなわち「思う」も「ある」も実在であることを指示する。直感的にわかりにくいのは当然で、これは(キリスト教の)規範なのである。しかし、デカルトが画期(ルネサンス的)的だったのは、スコラ哲学を大胆にストア派から読み替えて、異端として斥けられていた「媒介」を、導入したことである(原理主義者のパスカルの怒りを買ったのは当然である)。

デカルトはヨーロッパの知的社会に50年間君臨したそうである。

 

その後の者たちは、パスカルにしてもそうだが、デカルトという巨人をどう批判するかが試された。フェルマーは同時代の人でむしろデカルトの方が模倣した人物でもありつつ、そうであるがゆえにアイデアをめぐる論争相手でもあったが、(デカルトともう一方でウォリスの影響を受けた)ニュートンしかり(解析の擁護)、ライプニッツしかり(数理論理学の嚆矢)、オイラーしかり(関数の発明)。

ここで重要なのは、自明とされた(キリスト教の)規範をどう排除するかが試されたことである。デカルトの始めた「考える」ことの実在的な記述上の明晰さは、逆転してデカルト自身も批判の対象とした。明晰に関して、規範的に制限されて「在る」ことが疑問視されたのだ。「在る」ものは「在る」ことが明晰である。これは無限論と関係が深い。すなわち、無限は「ある」や「なし」や。「考えるな」は宗教である。

ソシュールも(その業績がデカルトから解釈されるべきかわからないが、補助線的に)そう考えるとわかりやすくなると思う。実在=概念ではない。このとき、記号は媒介か、概念そのもの(したがって、実在そのもの)か。なんだか不思議な感慨を抱くが、記号は記号である。当たり前と言えば当たり前だが、経験から理解すると、混乱する。
「犬」とは実際の犬を見て出来上がったのである。ジェスチャーとモールス信号くらいの違いがあるのか、イコンと音像くらいの違いがあるのか、ソシュールの謂ったことはもう少し複雑らしいが(シニフィアン/シニフィエの区別だけを言ったのではないらしい。)、ここに我らが《概念のロベスピエールフレーゲが登場する。

ゴットロープ・フレーゲの指摘にもあるように、シニフィエにあたる「意味」ないし「概念」は「指示対象」とは必ずしも一致しない。この意味において、「指示対象」はレフェラン(référent)と呼ばれ、シニフィエとは区別される。

シニフィアンとシニフィエ - Wikipedia

ここに論理主義が立ちあがって、〈判断〉の理性化へ向けて絶対に許さない闘争を開始した。革命の勃発だ。

しかし、フレーゲは、先駆者だっただけに、〈概念〉(素朴集合論)の本質的曖昧さを超えられずに、失意のうちに沈んだ。今でこそ彼は再評価されているが、しばらく無視され続けた。
それでも論理主義派にはラッセルがいた。さながら《タイプのクロムウェル》である。平和主義者としても有名だが、「理性の敵」に対しては舌鋒鋭く批判して、完膚なきまで叩きのめしたらしい。最初からわけておけばいいじゃねえか、という、目から鱗のような、話を差し戻すようなことを言ったが、デカルトと違うのは、関数の発明後であるので、どんどんレベルアップできたことである。ここにきてようやく「言えること」が論理的に定まったのである。

別の言い方をすれば、分岐問題が定礎できて、おかげで相互に参照することで、対象を指示できるようになったことである。わかりやすく言えば、ようやく「点」と「線」を論理的に区別できるようになった(デカルトはしていない。「ある」ことの説明をする実在論の限界から当然である)。当たり前のことを理解するために、なかなか長い道のりであったが、最初に、フレーゲが「当たり前のことをちゃんとわかるようにする」と意地を張ったのが報われた格好である。それまでは「言わんでも、わかるだろう(表現されてゆく中でおのずと明らかになる)」と嘯いていたのである。

そして、それをかつては「科学」と呼んでいたのだが、ラッセルの弟子である(以上にもはや社会的な親子ですらある)ヴィトゲンシュタイン(要は、ヴィトゲンシュタインは社会的に不適合な資質だったために、十分成熟するまでに庇護者が必要だったのである。)の段になると、論理主義と科学主義が鋭く対立するまでになっていた。要は、本質的には、純粋な演繹主義と或る程度の経験主義(帰納主義)の対立である。

「顕現的な数学問題」でヒルベルト・プログラムは良く知られているが、「潜在的な数学問題」に、実は、カント・プログラムというものがあった。これに言及したのが、かの悪魔的な天才、20世紀最大の数学者ノイマンである。これについては否定的に解決したとまでノイマンは言っていないが、「挫折」として語ることで、数学上の経験を語っている(ノイマンにも、忖度をするという、高度に、、、人間的側面があったのだろうか。それともさすがのノイマンカントには一目置くような敬虔さがあったのだろうか)

これになると、反対に、ソシュールが生きて来るのではないかと思う。要は、カントがソシュール的な含みを持つのである。すなわち、作用素環を構成するという偉業を成し遂げるにあたって経験を参照せざるを得なかったと云うのであるが、独立した体系の中から適切に選ぶことができれば、たまたま経験と一致するということではないかと思う。体系の独立性から、理論をより洗練させることも導けるので、「たまたま」を含意し得るのである。実際、ノイマンサヴァンなので、言うことが、普通の人の言語処理能力を超えて(苦にならない)、複雑すぎるのが特徴である。しばしば「洗練」されるのであった。

 

さて、問題は、ヴィトゲンシュタイン自身は、「2階述語論理」とは言っていないことである。ヴィトゲンシュタインの論敵には、気鋭の科学哲学者ポパーが有名だが、かつて父代わりだったラッセルもまた、無理解な論敵となったのである。
ヴィトゲンシュタインはどうも、むしろより古典的で、「アンセルムス」の系譜に連なって、また、(「語れない」ことの反射的に「語るべき」)ライプニッツ派であり(デモクリトスの実無限小概念に端を発する考え方で、エウドクソス:ユークリッドの「取りつくし法」という背理法を採る一派と異なる考え方。ε-δ論法を必要としない。ライブニッツはデモクリトス流で、イギリス人に限った話ではないが、ニュートンほか後の微積分学の発展に大きな業績を残した主流派はエウドクソス流。こうしてみると、微分発見の先取権争いは、フォーカスの強い話であるとわかる。)、これが重要なのは、ヴィトゲンシュタインの後に登場するゲーデルがその系譜を引き継ぐからである。親友を自認したアインシュタインをして「狂った」と言わしめた、ゲーデルが隠さなかった政治的な保守性は、それなりにワケがあったのだ。

※ただし、それは後世の得てしてする分類であって、デカルト本人が「近代主義者」でないように、アンセルムス本人は「合理主義者」でない。
カンタベリのアンセルムスの神論

科学者が賛辞を贈る一般性相対性理論におけるゲーデル解は、練習のための余技であって、ゲーデルの本質は「神の存在証明」の方に在る。

ライプニッツによる「神の存在証明」を洗練させたゲーデルの神の存在証明(英語版)として知られる論文を知人に配布した。しかし、その目的が、神学論争への加担ではなく、あくまで論理学的な興味の追求にあったため、ゲーデルは、誤解を恐れて生前は公表しなかった。その中で、ゲーデルは、ライプニッツの主張について、公理系を解明しつつ様相論理の手法を用いて明確な定式化を試みた。

クルト・ゲーデル - Wikipedia

赤字強調は引用者。

ここでも偏見が見え隠れするが、「興味」の追求のわけがねえだろ。それが生涯をかけるべき仕事なんだよ(だから、「興味」を持つとは言える)。おかげでゲーデルは、もともと偏った資質だけに、病んでしまった次第である。

さて、ゲーデルにできて、ヴィトゲンシュタインにできなかったわけだが、案外単純な理由で、ゲーデルはもともと家庭教育が熱心な優等生で、小さいころから博識の神童だったので、要は、ライプニッツの意義を、おそらく当時の水準を超えて、十分理解していたのである(が、反対にそれが、ゲーデルの躓きとなったらしい。「選択公理」である)。

ヴィトゲンシュタインの方は、残念ながら、技術学校の同窓生で、あの劣等生のヒトラーよりも一時期「落ちこぼれ」だった(成績表が残っている)らしい(が、ヴィトゲンシュタインは3年間できちんと卒業できており、ヒトラーは、留年を繰り返して、卒業ができなかった。ちなみに、ヒトラーも、幼少のころは、クラスを代表するくらい優秀だったが、小学校を卒業する前に進学を考えるころには劣等生になっていた。その経験が幼少の頃の尊大な性分を変えられなかったヒトラーが後々まで語る父親への愚痴となった。ヒトラーの性格以上に、ヒトラーもまた躓きやすい資質の持ち主であったと考える方が、後に世紀の犯罪者となる彼の数奇な人生を考えるうえで有益であると思うが、ヴィトゲンシュタインにしろ、ヒトラーにしろ、なんだかよくわからない話である)。

要は、ヴィトゲンシュタインの資質を見抜いて、教育らしい教育を施したのが、ラッセルだったのではないか、ということである。ここらへんは、ハーディとラマヌジャンの関係を彷彿とさせるが、ヴィトゲンシュタインの場合、あまりに遅咲きである。ヴィトゲンシュタインの何を評価したのだろうか?不思議な話である。名門のベルリン工科大学へ進んでプロペラの設計で特許を取るくらいだから(これは素晴らしい。)、工学から数学的センスが磨かれていたのだろうか?

シュリニヴァーサ・ラマヌジャン - Wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン - Wikipedia
アドルフ・ヒトラー - Wikipedia

どっこいどっこいだったヒトラーが、希望通り、建築か美術の途へひょんなことで進んでいたら、どうなっていたかを想像してしまう。まぁ、大成しなかったであろうが(癖なのか、微妙にパースが狂っているように思う。)、挿絵画家としてはそれなりにうまく行った可能性の方はあったらしい(挿絵だと気にならない)。戦争でとん挫したが。

つまり、ラッセルの躓きを踏襲するかのような躓きかたなのである。
ラッセルのパラドックスは、本人によると、床屋の比喩で説明されるが、これがパラドックスの厳密な説明となっていないのである。ラッセルが「偉い」のはこれからで、「あぁそうか」と、ならサブジェクト(主体:〈存在〉の表象)を除けようじゃないか、となった。

主語と述語を論理の対象としての意義から明確に分けて考え始めたのはカントらしいが(「主語」の発見。「主体」と「主語」の分別)、それを推し進めたような格好である。〈判断〉を徹底的に排撃したラッセルだったが、その器たる〈存在〉を除け忘れていたのである言うわりに迂闊もよいところだが、功を奏した。カントの最大の仕事は、巷間言われていること以上に、これである。ラッセルが述語論理を始めたかどうかは知らないが、タイプ理論はいまのところ優勢である。

ヴィトゲンシュタインも、迂闊にも、この「日常性」を取り入れてしまった。もともとオックスフォードに日常言語学派があったらしいが、これは、ケンブリッジへの対抗を無視してなかなか考えられない。
すなわち、形式論理の限界へ高をくくった、、、、、、うえで、「2階」のアイデアを取り入れようじゃないか、という算段、、である。要は、体よく「パクつい」しちゃおうぜ、ということである。最終的な勝利者は自分たちなのだから、結果が動機を正当化するとの肚づもりである。

そして、実際に「誕生」したから、大したものである。
これを読んですぐにわかる人は、どういうことだろう?

要は、最初にリンクしたサイト先の説明にあったような「相対化」というより、むしろ本当は「2階化」なのだがそう言えない事情があったのだ

そして、終戦時に、議論をリードして、ナチスを裁いたのである。
実証主義の是非については議論が続いているが、法学史に金字塔を打ち立てたと言ってよい。
その後、「決め方」の論理として、この手の2段階論理は、大いに華開くこととなったのである。おかげさんで、アマルティア・センは、ノーベル経済学賞を受賞したのであった別に、ヴィトゲンシュタインのおかげというわけではない

<おわり>


しまった。

なんか、ヴィトゲンシュタインの説明が締まらないと思ったら、ケンブリッジの秀才チャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)を入れ忘れていた。

数学と論理の近いようで近くない関係を語るうえで重要な「変化球」、トマス・ホッブスも入れ忘れた。ライプニッツは、法学的知識が決定的に重要だった稀有な人だが(フェルマーも法律家だが、ライプニッツは方法論的に法学を取り入れたのが稀有である。こんな人、ほかに居るのだろうか?)、ホッブスはそれができなかった人で、数学の方は頓珍漢だったせいか、ロックに比べて妙に「当たらず触らず」の距離に置かれている。

ドジソンとホッブスもまた、再評価されなければならない。

 

ホッブスの解釈はこのとおりである。

トマス・ホッブズ - Wikipedia

〚前提〛

自然状態において自然法不完全である

〚帰結〛

主権者が国内の宗教を含めてあらゆる国内的、国際的政策を統制できる

赤字強調は引用者。

「不完全性」から「完全な可能性」を導いているが、ここに2段階論理を用いているのである。このとき、アンセルムス(の系譜に連なるゲーデル)の「可能性」から「必然性」を導く論法へ近づくのである。その点で、ロックやルソーは後退したのではないか、と思えてくる。

あと、ヴィトゲンシュタインゲーデルとの関係では、ライプニッツ(の無限の理解)が重要で、ヴィトゲンシュタインは、ライプニッツ派なのだが、ゲーデルの理解が優れていたというニュアンスもどこかへ入れたい。

ヴィトゲンシュタインラッセルの確執の本質も、このライプニッツ的(大雑把に適当なことを言えば、ドイツ的で、イギリス的な文化との対立)であるかどうかであって、ヴィトゲンシュタインについては「語らない」ことがどうしても注目されるが、実は、ライプニッツの「語るべき」ことが根底にあると考えた方が自然である

ルーカス教授職 - Wikipedia

そこでルーカス教授職である。
招かれたとはいえ、(アメリカならまだしも先進国から来たドイツ人の影響を建国時からずっと受け入れて来た経緯があり、実際、多くのドイツ人が活動して「ドイツらしさ」をアメリカに根付かせてきたが)イギリス本国に乗り込むのは、意外な感に打たれる。

ハーバート・ハート - Wikipedia

ハーバート・ハートもドイツ系(とポーランド系)であるが(ヴィクトリア女王の夫アルバートも、パン・ドイツ主義の、献身的であったが、野心的なドイツ人だった。その後、パン民族主義ヨーロッパ大陸を席巻して帝国による征服の野心を剥き出しにする時代を迎えたことを考えると、ドイツ人はいっつもそんなことを考えているのかたまたまなのか、黄禍という言葉は在っても、白禍という言葉はないのが不思議だ。他方テロという言葉は生まれた)。

※ただし、これについては、どうも侵略したモンゴル側の都合もあったかもしれず、元寇の恐怖が語られるが、これも聞いていると、その昔のヴァイキングの恐怖と遜色がないし、信長や、その弟子秀吉の日本人への残虐行為だって、遜色ない。むしろ、元は侵攻に本当に自信があったのか、疑わしいところである。野心はあったが、意外なほどもたもたしているし、実際、日本の含めて元の東南方面への進出はむしろ完敗なくらい(0勝3敗の、最弱国)である(野戦による機動性が発揮できない戦場では勝てないし、後の秀吉による朝鮮出兵を見ても、仮に戦術的に勝てても、戦略的には負けるのが常だ。物理的限界には勝てないのだ。それをどうにか「克服」できると言えるようになったのは、近代以降であって、大航海時代までのスペインだって、都市の港湾(点的)制圧が限界であった。負担を任ずる現場、特に半島ではそれがよくわかっているので、どうにかしてごまかしたがるのも常だ。どうも日本人の戦争観は、北条氏のときの戦闘観と似て、独特の発展を遂げていて、日米戦争にしてもやたら云々するが、勝ち目のない戦争など、ロシアの侵略を見ても、普通にある、ことがわかる。大陸人というのは誠におおらかだ。元寇にしたって、はったり7分実力3分であったと考える方が自然だ。戦争はどうしても被害が大きいので警戒して当然だが、「ある」こと自体は、それほど合理的でない。互いに被害へのバイアスが当然に働くことを算入することを算入するからだ。いわゆる「合理的に不合理」というやつである。元寇がよい例である。元寇など、どうあったところで、最終的には日本列島から掃討して当たり前だが、被害が出ることと、被害と文物交流の途絶が統治上の負担となって、勢力が衰微することが問題なのだ。列島と半島は前提として物理的条件が完全に異なっているのである。あまり言われないことに、最初にアタックがしかけられ全滅した対馬ですら、支配されていないのである―これは本当に不思議な話で、よく元寇は高麗人に唆されたと言われるが、ならば、元はさておき、ずっと続く交易上の利点を考えて、高麗人が対馬を支配してもよいのであるが、その程度の経済合理性もなかったという話である。少なくとも元にとって本当の敵は内地の明だったことを考えると、まさに「つつがなきや」の話で、当時の海の大きさはわからないが技術の低さはわかるので、聖徳太子ほどの人になるといささかもぶれないのが当然であったと理解できる(隋の煬帝が激怒したことばかり強調されるが、朝廷だって激怒したのだ。これは感情がどうのこうのではなく、それ自体が外交なのだ。「対等外交」というのは何を意味するのか、あまりに近代的な発想でよく理解できないが―もちろん、当時に在って、外交(上の儀礼、ルール)はあるにせよ―、互いの言葉の中にどう閉じこんで支配を行き渡らせるかで「対等」にやりあうのは、当然である。要は、近代ほどには弁別されていない曖昧模糊とした勢力争いであって、それ以上のことがない)。後のスペインほどの影響力もない(反対に、対馬の人にはまことにお気の毒で申し訳ないが、せめて島のひとつくらい獲ればどうか、と思ってしまう。いや、それを言うと、北方領土問題があるので、やはり言えない)。そういった意味で、海外からの支配に怯えること自体が、ただの夢想である。元は裏面では最弱国だったのが事実なのだ)。

 

閑話休題