【メモ】カントの「自由」の時代的意義

こんがらがってきた。潮時だ。

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伊藤清『確率論と私』)

藤原正彦『数学者列伝天才の栄光と挫折』)

(A・コルモゴルフ『19世紀の数学』)

伊藤清が紹介したコルモゴルフの言葉とコロモゴルフ自身の著書の記述に内容に齟齬があるだろうか?

youtu.be

「人間のただの主観だというのが経験論の主張です」

(12:08 / 25:23 • アプリオリな総合判断はいかにして可能か)

この「経験論の主張」がヒュームだとして※、

アプリオリな総合判断がある」

(12:14 / 25:23 • アプリオリな総合判断はいかにして可能か)

ことを以てヒュームの懐疑主義にカントが対抗した、という説明の仕方に成っていると思うが、これは、それなりに奇妙な説明である。

このビデオは、よく整理されおり参考になるが、疑問に感じないではない。

『政治思想史』を読んだ限りでは、「主観」を主張したのはカントもであって(だから画期的だった。)、ただし、その「主観」にはアプリオリな形式が(他者を待つまでもなく、自己に、もとより)備わっている。それゆえに啓示(外的規範への従属)に替えて直観(内的規範への従属)が焦点となり、「自由という責任(不利益命令。ここでは、自己負担)」が強調されることと成ったはずである。

空間的/時間的と分析的/総合的は2つの対なのである(今なら、同時的/継時的と言いそうである。分析的/総合的は、構造的/構成的を経て、所与的/生成的のニュアンスも含んでくる)。わかいやすく言えば、やはり、時間的とは比喩的な「言語的」であることで、これが比喩にしかならないから一般概念として「時間」で示したと考えるのが自然であると思う。カントの総合判断とは主語と述語を以て論理的であると考えられると思う。要は、カントは認識や主観を論理のレベルで考察したのだ。

このときコロモゴルフの主張は、「数学は「科学」である」ということである。
数学もまた、経験の学問との主張である(科学主義と古典的論理主義。cf.ヴィトゲンシュタイン)。

ここにおいて、アインシュタインフォン・ノイマン、コルモゴルフの共通性を見出すことができた。経験である(ただし、アインシュタインは、量子力学の論争を経て発明主義へと至る—『物理学とは何であったか』。反対に、フォン・ノイマン量子力学を発展させて経験主義に至る—「数学者」講演。『作用素環の数理』他に掲載※)。

コルモゴルフに関しては分かりにくいが、カントは数学を「科学」と言ってない(カントは自然科学を数学とは別にカテゴライズしたはずである—「数学があって、科学が在る」のと「数学が科学である」の、2つの言明間のニュアンスのことを言っている)。また、「発想」において「本来」の主張を否定したのであるが、公理論的確率論を確立したコルモゴルフの数学は、空間的でありながらも時間的であり、科学として経験的である。そういった意味で、カント本来の主張を否定している。

カントは古典的な—アンセルムスのような―神学者に近い。それはカントの説く「直観」である。カントの真の画期は二元論を採ったことであり、それがアンセルムスの直観即啓示との違いであると思う。直観即啓示が一元論だからである。その準備が形式論であり、その道具が論理だったと思う。

それは「コペルニクス的転回」というよりむしろ「述語論的転回」であり、それは終戦時まで続く※「主語を述語に従属させて、主体を背景化する」技術であった。

「カント哲学」と呼ばれる内容は、総じて、(キリスト教徒でない日本人にとって)おそらく新教的な「カント神学」であり、この点が見落とされがちだと思う。

 

ゲーデルが「不完全性定理」を以て人間の認識の限界を悲観したわけではないのと同じように—ただし、ゲーデルは神学へと関心が向かうので、人間の認識能力については考えるところがあったかもしれない。ゲーデルの「不完全性定理」はヒルベルトの要請に応えた格好であり、結果としてヒルベルトの主張した数学的方法論に関して―ヒルベルトが排撃した直観主義論理を駆使して—否定的に解決したのであるが、「解決」の利益は次の数学の発展にかかっている。要は、無碍にしたわけではない。—、ヒュームも人間の認識能力に悲観したのではなく、「第二の自然」としての習俗、すなわち経験を擁護した。

※面白いのは、西欧の、こういった時代を画した「偉大」な研究者たちは、おそなべて哲学に明るかったことである。一方、日本の同等の研究者たちは、おどろくほど素朴である。伊藤清もやはり仏教に少し触れた程度である。何か言わなければならないと思ったのか、しかし、ほとんど意味はないだろう。仏教で科学を論じるのは、創造論が科学的に説明できると考える程度には、一般的でない。仏教はどこまでも前近代的である。

ナチスの経験を反省するために再興された自然法論にある(神学的)価値論である。就中トミズム(トマス主義)。


ここらへんの話は、さらにチョムスキーを加えて、生成文法と比較すると見通しがよくなるかもしれない。

敢えてそれに擬えると、数学は「普遍文法なのか、生成文法」なのか、という問い経ててであり、数学者、物理学者たちは、生成文法だと言ったのではないかと思う。

カントは、うろ覚えで自信がないが、「科学」を曖昧に、或いは、両義的に使っていて、自然科学と別の用法もあったかもしれない(それについてちゃんと説明したものをみたことがない)。コロモゴルフも、カントに倣って、自然科学に限定しない「科学」を言ったのかもしれない。それでも、カントと主張を異にしたのだ。彼らの主張では、カントが数学そのものを普遍文法だと考えたということのようだ。

ハンケルは、物理学教授のヴィルヘルム・ゴットリープ・ハンケルの息子でした。 1849年に家族はライプツィヒに引っ越し、彼はニコライ学校に通い、優れた数学の成績により高等学校の段階で通常の古典科目の代わりに原典のギリシャの数学者を読む許可を得ました。 彼はライプツィヒのアウグスト・フェルディナント・モビウス、ヴィルヘルム・シャイブナー、そして父親と学び、ゲッティンゲンのベルンハルト・リーマン1860年)、ベルリンのカール・ワイエルシュトラスレオポルト・クロネッカーで勉強しました。 1861年にはすでにゲッティンゲンでヘルムホルツの渦理論に関する論文で賞金を獲得し、同じくゲッティンゲンで完成した連分数の展開に関する論文(これは彼が特定の行列の研究に遡って、対角線上の要素が同じである)により、1862年ライプツィヒで博士号を取得しました。 彼の学生時代には、重い病気の兆候がすでに現れ始めていました。

1867年に彼はライプツィヒで非常勤教授に任命されましたが、同じ年にエアランゲンで正規の教授に任命されました。 そこで彼はマリー・ディッペと結婚し、1869年に情熱的な学術教育者はより多くの学生を期待してテュービンゲンの教授職に赴任しました。 彼はテュービンゲンで数学の教育を改革し、シグムント・ギュンデルフィンガーといくつかの他の同僚と共に数学セミナーを設立しました。 その後、彼は熱心に教育に取り組みました。

彼の「形式的法則の恒久性の原理」(1867年)と「複素数システムの理論」(1867年)では、モビウスやヘルマン・グンター・グラスマンの幾何学で使用される代数系などの代数学について調査しました。 彼は最初の人々の一人として彼の重要性を認識しました。 これらの調査は実際は彼が完成させることができなかった関数論の教科書の前段階として考えられていましたが、彼の死後に出版されたものはありません。 1870年にはリーマンの該当する研究に続いて実数関数に関する本が出版されました。 彼の死後、彼の投稿した射影幾何学の講義も出版されました。

ハンケル関数と呼ばれる特殊な円柱関数、および彼が研究したハンケル変換は彼にちなんで名付けられました。 その他の著作にはリーマン積分論が含まれます。

1872年の夏に彼は脳膜炎にかかり、ほとんど死にかけました。 彼はすでに他の論文でそのテーマの歴史的側面に常に関心を持ち、研究者としての活動を終えた後は数学の歴史に関する大作の執筆を計画していました。 1874年に遺作として出版された最初の概要を要請されると、彼はこの仕事を開始しました。 しかし、彼は再び重病にかかり、ブラックフォレストでのリラックス旅行中に脳卒中で亡くなりました。

Hermann Hankel – Wikipedia

 

(D・ヒルベルト幾何学基礎論』)

(倉田 令二朗『数学の天才と悪魔たち: ノイマン・ゲ-デル・ヴェイユ 』)

(はじめに,清水義夫『圏論による論理学 高階論理とトポス』)

(『圏論による論理学 高階論理とトポス』)


空間的/時間的は、数理的/論理的となったが、なぜか逆転した印象を受ける。

1854年には「幾何学の基礎にある仮説について」で大学教授資格を取得した。

ベルンハルト・リーマン - Wikipedia

Ueber die Hypothesen, welche der Geometrie zu Grunde liegen (PDF) (1854) - 「幾何学の基礎にある仮説について」

リーマンーヒルベルトの「概念数学」からだろうか?

 

ラッセルのパラドックスがカントにおいて問題にならなかったのは、カント以前に唯一の主体だった神に言及する二律背反を叡智界に退けたからだったと思う。
反対から言うと、ラッセル的なパラドックスへの途を論理によって開いたのがカントだったと言える。しかしそれが切実でなかったのは、カントがまだ神学的世界観(の中での自己意識)に生きていたからだと思う。
カントの人間観が、パラドクスを(叡智界、感性の問題として)斥ける命令を自己に課した「敬虔」な人間観だからである。パラドックスに迷うのは自由の逸脱であって、自由の要求する規律によって、規範的に可能な選択をしなければならない。
こうして、宇宙論を、自己という主体から切り離された認識の対象として、主観的に健全に論じることができる。「客観的」に論じるのではなく、「客観的」と信じられる認識の形式を自己にすでに備えて主観的であって疑いようがなく、それを「そのもの」とは別のこととして認識の形式に応じて操作対象とすることが論理的に保証されている。

デカルトの理性にあった曖昧さが主体問題だと見抜いて、主体に付随する或る困難を論理的な具体性を以て制限する(主体問題を制御する)自由を定義することで克服したと考えられる。これがカントのデカルト批判である。