【メモ】カントの「自由」の時代的意義

18世紀の「自由」とは何だったか。

カント以前にその意味での「自由」が人間になかったとしたらその「自由」とは何だったのか。神である。曰く「神はなぜ善を為すのか」が「自由」の代表的な問いだった。この限りでの(「奴隷主義」に対置される)「自由主義」は神の完全性のモデルだったに過ぎない。これが実在性であって、神の被造物が神の保証のもとに「自由」な表現対象であるとき、同様にして、表現対象として文字を人間は選ぶことができるという(推移的な)信念が「文法」である。被造物である人間が世界に実在するように、文字も文法の中で実在する。デカルトの「我 思う ゆえに 我 あり」の実在性とはこのような統一的世界観で説明される。「我」も「思う」も 同等に、、、 実在である。

18世紀のフランスは、ポールロワイヤル文法と百科事典に代表される。

ヴォルフからカント、そしてヘーゲルへの流れは、ポール・ロワイヤルからライプニッツ、そしてベルヌーイへの(「確率の出現」の)流れとパラレルである。

そこに、懐疑論の泰斗ヒュームも居たし、一方で、イギリスの経験主義の泰斗ジョン・ロックも居たのである(もとより法学者であるライプニッツは「敗北主義的な」※ロックの批判者であった)。カントはヒュームを乗り越え、ライプニッツはロックを乗り越えた。これが英仏から独への思想史的な流れである。別の側面を見れば、それが、長いルネサンスによる、ヘブライズム、ヘレニズム、ゲルマニズム間の緊張の緩和と融合、就中ドイツに関して言えば、ローマ主義批判から「ギリシャ 」となって現れる。こうして、統一的世界観は、特に、幾何的世界観、実のところ、ギリシャ的公理主義によって説明されてゆく。だからこそ、端緒の億間の「確からしさ」が問題と成る。

※P.146,第10章 確率と法(1665年),『確率の出現』

そもそも「明日雨が降る可能性がある」とはプラトン/アリストテレスの代表的な問いであって(任意の「明日」において、一回でも雨が降らなければ「可能性がある」と言えないか、一回も降らなくても「可能性がある」と言えるか。)、ヒュームの独創のわけがない。

古典的な問いを何度も問い直しているのである。それがギリシャ主義の根強い力であるのに過ぎない。それが「世界」と対応を持つのか、(「世界」と対応を持たない、人間の自由な)規約に過ぎないのか、という問いへと引き継がれてゆく。

こういった「世界」理解において、「実在」「規約」「発明」「発見」「対応」「認識」「経験」、或いは「演繹(証明)」或いは「帰納」が述語となるのである。

こうして、「自由」を手に入れた人間は、幾何的世界観と解析的世界観を分別してゆく。「解析接続」の不思議な帰結は、述語的なのである。


普通に読んでいてもわからないのだ。

(P.203,『政治思想史,有斐閣』)

ライプニッツの影響を受けたデカルト主義者であったヴォルフ流の合理主義者として出発するが、ヒューム流の懐疑主義—結局、ヒュームは、「わからないけれど、差し支えない」と言ったのだが※—によって臆見(ドグサ)を見出す(cf.『確率の出現』P.215)。

※「わからないから、困る」などとは言っていない。ここらへんは、ゲーデルの所謂「不完全性定理」に関する「哲学者の誤解」に近いものがある(哲学史から言えば、記号論自体が、実在論の一環なので、誤解する理由は「在る」。それがまさにカントの批判したヴォルフの「独断」だろう。主体と実在が無分別なのだ。カントから「人間的」と言われるのもまた主体問題で、唯一の主体であった神の被造物としての表現であった人間自身が主体と成って、自由な表現を持ったのである。カントから近代が始まったのはこういう理由で、カントの実在とは述語のことである。カントはアリストテレスの本性を述語に言い換えて論理学を改めたのだ。このときプラトンの本質は「物自体」として不問に付した。これが〈私〉という主体になってゆく。しかし、テキスト上は、主語として述語に従属するのが特徴である。これが実証主義となるのだが、ナチスの経験を経て、例えばトミズムーネオ・プラトニズム!日本では「砂川事件」の田中耕太郎であるーのような価値論の復活、要は、主体論の復活を遂げた。新カント主義のその後の話である。カントは結局、名辞と命題の区別も怪しいデカルト流の素朴な実在論から数学的実在論を分別する先鞭をつけ、実在論は—神学を持たない—主体論へ転化した)。そして、これは、特段ヒュームの独創ではなく、デカルト以降の水準で(当時にあって)精緻な議論に言い直したに過ぎない。要は、本質・本性論なのだ。本質・本性論は、プラトンアリストテレスである(がゆえに、ガザ―リーである)。
結局は、これもまた、「ルネサンス」の一環に過ぎない。

臆見と評価は「 蓋然性プロバビリティー 」自体とともに、ライプニッツが精通していたスコラ哲学の主要カテゴリーである。

第14章 等可能性

これは某国のサイトなのかな。日本語が破綻しているけれど、意外に、エッセンスが抽出されていて、 まずはこれでよい。

(訂正)×意思〇意志(下「クリスティアン・ヴォルフ」でも同様)

hitopedia.net

hitopedia.net

クリスティアン・ヴォルフ - Wikipedia

も、おそらくそれなりによくまとまっているのだろけれど、これだけだと、ほとんどわからない。

ここでは「孔子」が無神論と批判された原因と言ってる。「異教的」と同じ意味だろうか。

とにかく、こうして「アプリオリな(所与の、外的感官の形式としての「空間」と内的感官の形式しての「時間」に規定された対象をカテゴライズする)悟性」を自己に想定することで、自己を問答無用の普遍的な認識主体として、理性=幾何的世界観の権威的支配によって人間自体を合理的操作の対象とする営為に対抗すると同時に、懐疑主義からニュートン物理学を擁護した。しかし、一方で、それは自己完結した道徳的存在を(中世神学における神の如き)意志を持つ自由な主体と規定することで、「一切の感性的要素を排除した道徳法則への服従を説くカントの倫理学には,人間の相互関係が占めるべき位置がない」(P.205,『政治思想史』)。このときヘーゲルが、共同体成立の契機を欠くとして、「 世界内的、、、、 契機が欠落している」と批判することとなる。

 

まずはカントの(悟性の所産である「観念」「概念」と異なり、感性の所産である)「理念」をパトスを生む「実体的な力」と読み替えて二元論を肯定的に評価したロマン主義者が立ち上がり、ヘーゲルも「ロマン主義者と軌を一にし」(P.223,前掲)たが、やがて失望する。


有斐閣『政治思想史』)

これだけを読んでもほぼ何を言っているかが分からない。文脈をたどることとなる。

このとき、イギリス人の表現と比較するとわかりやすい。ここにヒュームが呼び出される。「第二の自然」たる習俗とは、ヒュームの言ったことであって、ここでヘーゲルは「懐疑」を「不幸な意識」に読み替えたのだ(合理的判断は究極的に無理でも、経験で生きてゆけるじゃないか、というヒュームの主張を、無理とわかって合わせているのは不幸だと言ったのだが、ここに、中世的な宇宙論=神の創造論=時間の始原論—無から有を創造した唯一の—異教の「神」とは異なる—神を保障する「時間—の始まり—」と謂う順序関係と彼我—宇宙は神の外に在る※—の対置—を前提として、カントを経由した、人間の創造論に置き換える作業が続く)。市民社会論としては、ホッブスで、ローマ的な部族社会は近代社会に再結合されるべきとなる。イギリス人が言うと簡単なのだが、ドイツ人が言うと、わけがわからなくなる。

※これがそれまでの哲学(=ギリシャ哲学、アリストテレス)への批判の焦点であった。宇宙は神の一部あるいは合一なのか、宇宙は神の外にあったのか。創造論に関わる。なぜ、デカルトは、ギリシャ哲学に哲学的方法を学びながら、「哲学」=アリストテレスを批判するのか。デカルトはやはり神の擁護者なのだ。一方で、パスカルから、異教的(=異端者)と激しく非難される。ギリシャ的な「媒介変数」の駆使のためであると思う。それは曲線論で花開いたが、人間を含め「媒介」と見做すことは、スコラ神学では異端の疑いがある(天使は微妙な存在である。「被造物」「伝令」「霊的存在」、或いは、「針の上に天使は何人乗るか」では「概念」と説明される)。デカルトの経緯的二元論(帰結的一元論)はそれほどの「危険思想」だったのだと思う(したがって、反対に、アンセルムスはデカルトが批判したような「論証」をしたわけではない。そもそもデカルトとアンセルムスは、神学的方法が違うのだ。アンセルムスは伝統的な秘儀の作法によって—伝えられるところではトランス状態で—、直観的な啓示を受けた内容を”密室で”口伝したのだ—真偽のほどは確かめようもないが、要は、要職に就いていたアンセルムスは、公会議で紛糾している議題の背景に在った、三位一体とイエスの神性を擁護する必要が当時あった。だから、実に 人間臭い説得じみた、、、、、、、、、 表現だったのだと思う。聖書を見ればわかるが、神はそれこそ暴君で問答無用である。言辞を費やして説得を試みるのは、聖書を変えたとも言える「ヨブ記」のヨブを見てもわかるとおり、人間の方である。神はむしろ積極的にアンロジカルでだから人間が試される。「批判」というのは、すなわち、先達の言葉を駆って、自己の到達を示すことであった)。

そしてヘーゲルがルソーの弟子なのは「奴隷」に言及していることである。

カントの二元論をユダヤ教の律法主義批判に落とし込んでそれを克服するキリスト教の愛の文脈で解釈し直してなお「不幸な意識」と呼んだ。前提としての二元への分裂を保存したまま彼我の二世界を越境する神秘的な融合を望んだからである。

そうではない現実的な解決となる、具体的な「融合」は何か。

「労働」というのがヘーゲルの解である。ここにルソーが活きる。
二元への分裂を「主人」と「奴隷」に置いた。「即自」であるとか「対自」であるとか、やたら、述語化に励むのであるが、平易に言えば、「奴隷」も「主人」も手段として「奴隷」を対象化するが—したがって、「奴隷」は「奴隷」自身を対象化する—、「奴隷」だけは「労働」を通じて自己を目的化できる。なぜなら、「労働」は「造形」を生み出すからである。

要は、「造形」とは「創造」であって、「自由」の産物であるということらしい。
こうしてカントの「道徳」への「自由」は、「創造への奉仕」というときの「奉仕」への「自由」に読み替えられ、そして(カントの語彙なら)手段としての自己=(ヘーゲルの語彙なら)客観化される自己(これが「対自」)が(カントの語彙なら)目的としての自己=(ヘーゲルの語彙なら)主観的な自己(これが「即自」)に回帰する。

あまりに特殊ドイツ的な社会観でよくわからないが、

  1. 哲学的伝統がない
  2. 神学的伝統がない
  3. ゆえに、概念を、まるで数式を扱うようにして、扱えない

からである。何と何が同じことを言っているのに過ぎないか)を喝破する必要がある。

政治思想史において(カントの生きた時代に)「ところで,こうした合理性,非歴史性,主観性によって特徴づけられる自然科学が,実践の営みとしての政治,そして実践の学としての倫理学政治学と相いれないことは,容易に理解でき」(P.210『政治思想史』)るとされるとき、法思想史においてはどう理解されるか。


(左:P89,Ⅱカントの法哲学,右:P.87,Ⅰ啓蒙期自然法思想,ともに第5章ドイツ観念論の法思想,『法思想史』,有斐閣

「ヒュームによって独断のまどろみから覚めた」という説明はかなりナイーブに感じる。法思想史においてはヒュームも懐疑主義も出てこない。そもそもヒュームの例はプラトン/アリストテレスの確率を巡る立場の相違が当時にあって未だ未解決であったに過ぎず、ギリシャ哲学が有効な哲学として当時あって未だに機能していたことの裏書に過ぎないのではないかと思う。「ギリシャ越え」はナント20世紀に入らないと完了しなかったのだ。

ヒュームを評価したのは誰か?アルバート・アインシュタインである。

それは、さておき、法思想史において焦点化されるのは、「経験」と「快楽」と「ローマ」である。或いは、「理想」「道徳」であり、ギリシャはその裏に隠れて「一元化」或いは「二元化」との通奏低音を奏でる。「ローマ法」はあっても「ギリシャ法」はない。「ドイツ法」がギリシャ化されたドイツ人の法なのだ。しかし、それは「ギリシャ法」ではないが、ギリシャ哲学が奏でられているのである。

ギリシャ哲学の絶大な影響を別の面から見ると、

(D・ヒルベルト幾何学基礎論』)

「経験主義」とも言えるハッシュの立場から説明を始めている。

カントがア・プリオリとした「内的感官の形式としての時間」とは何だったのか?

  1. 幾何学的な順序のことだったのか(公理論)
  2. 神学的な順序のことだったのか(創造論
  3. 一般的なTIMEのことだったのか
  4. その他

(カントに影響を受けてブラウワーが始めた)直観主義論理に依拠しつつ、「ゲーデル数」を生成して証明したゲーデルを考えると(ヒルベルトは、数学から直観を排除し、「結合法則」等諸法則の組み合わせて数を構成する生成主義(或いは、 の計算主義)に代わって—ガウスの直系で現在自己の名を冠した幾何学で有名なリーマンと自身の親友デデキントに影響を受けて始めた—公理主義を打ち出した。)、カントの意図がどこにあったか深淵である。

少なくとも、ヘーゲルは、2に解したと思う(政治思想史上、ヘーゲルは、カントの二元論とそれを批判したロマン主義者たちの一元論とを調和した、—デカルトと比較される—経緯的な二元論・帰結的一元論を神学的に説いたと理解できる—したがって、この後は、神学的直観の排除=近代性が問われることと成るはずである—しかし、結論を言えば、ただのオカルトに終わった。科学は方法論的にもっと先へ行ったからだ—。結局、一元論と二元論の間を社会の経験に合わせて行ったり来たりしているのだ。ヘーゲルの一元論は戦後においてどうなったか。伝統的な自由との関わりのおいて、現代的な道徳論、すなわち、方法論的な二元論に一応落ち着いている)。この場合、ルネサンスの顛末ということになる。

ニュートンの再来」と謳われ、数多くの業績を誇る、ダブリンの神童ウィリアム・ローワン・ハミルトンが興味深いことを言った。

(『天才の栄光と挫折藤原正彦

藤原さんは素晴らしい業績を残されていて、憧れの存在であって、私などは尊敬してやまないが(なお、「保守」思想は、政治学で評価する程度ではないので、どうでもよい。ただの趣味の話である。高瀬正仁先生のルソー評もそうだったが、人文科学の知識は期待できない。特に学術的な関心もないのだろうと思う。)、少し疑問に感じた。

おそらく間違いではないのだが、ここでいう「公理論的」とはさきほどのヒルベルトの—「生成的方法」と対立する「公理的方法」があるとき、それを論じて「公理論的(方法)」を指導するのとは、意図がずれる。要は、「生成的方法」への関心が欠落しているように感じる。だから、「奇妙」「浪費」という評価することと成るのではないか。

ところが、藤原も続けるように、ハミルトンは複素数の拡張を成し遂げた。この複素数の拡張を以て「公理論的に再構成することに成功」したのだ。すなわち、

 「拡張」=「再構成」

であるとき、これが

 「公理論的」

だったというわけだ。おそらく、さきほど感じた「ずれ」を解く鍵はここにある。

ガザーリー『哲学者の自己矛盾』)

神学的に言えば、「時間的」とは「生成的」である。学習者の為に問答形式で書かれたこの書は、哲学者へ答える体裁を採っており、「問」とは哲学を代表するアリストテレスの見解を示している。

これなどは凄まじく、ヨーロッパ人が享受した「ギリシャ哲学」とは何だったかを示してあまりある。なぜか?


(A・アインシュタイン『特殊及び一般「相対性理論」について』)

デカルトの主張そのものだからである。そして、(この時点で)経験主義者のアインシュタインは、さりげなく、カントをデカルトとともに(次のページですぐにトリチェリの水銀実験を紹介している)、過去に追いやる。

ガザ―リーが神学上「意味のない」と説明したことは、神学的信念であるがゆえに、(デカルトを批判した)カントを経由して「感情」と判断されることと成った。それでいて(その時点ではカントの論を採用しつつ)、カントのnon-objective=subjectiveな空間把握も正直に「不安を除く」ものと—デカルトと同一視して—否定している。
アインシュタインは、理由があってカントが「そう言いだした」ことを、逃さなかった。

空間は測定可能な対象である(「延長」の前に「空間」に関する主観的な認識形式があるのではない)というのが、この経験主義者の見解である。

tbits.jp



 

すなわち、命題論理が名辞論理を含意しているように、述語論理が命題論理を含意しているように、「公理的」は「生成的」を含意してより大きな説明の仕方なのだ。

  の計算から始まった平面(二次元)から立体(三次元)への拡張は、複素数に関する概念の拡張、すなわち四番目の虚数(単位)k を以て帰着した。これが「公理的」な「再構成」による「成功」である。

(A・コルモゴルフ『19世紀の数学』)

こうして、カントの「時間」はこの「生成的」であることと何かしら関係があると朧気ながら見えてくる。問題は、「生成的である」ことではなく、「「生成的である」ことに形式を与える」内的感官である。前者は、ア・プリオリではなく、後者はア・プリオリである。「四次元」という概念を欠いていた時代、カントは、(ニュートン物理学を懐疑主義から擁護し、一方で、 その、、 自然科学の影響力が専制化することを— 克服されるべき、、、、、、、 懐疑主義とは別に—制限するため)「幾何学」と「時間」にそれを分け(自然の内に自己が「在る」のではなく、自己の内に自然が「在る」とコペルニクス的転回を成し遂げて、一元論的専制から「世界」を二元論に峻別することで人間を解放した。近代とはカントに始まるのであった。)、ハミルトンはそれは代数的だと喝破したのだ。代数幾何学の黎明である。


そもそも「デカルトは心身問題について二元論しか主張していない」との命題は偽だからね。これが分からないとカントとデカルトの関係がわからないし、カントとヘーゲルの関係もよくわからなくなる。神学を軸に対立してんだよ。