字が下手なのがコンプレックスだし、文章の拙さが悩みの種だ。
文章が上手いなぁ。
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これは「実務」を対象にする縛りをかけたから、とりあえず話を閉じられるけれど、そこで終わらないと、
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であったり、
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で、終わらない。基本参考書はスタートするための語彙を獲得するだけだからね。
問題解決のアンチョコじゃない。
これが「なぜ1冊じゃダメなの」と考えるなら、それは 安直 を求めているんだよ。
そういうことだねぇ。
もともとこの話は、大学生の論文だったかな。だから、まず、読みなよってことなんだけれど、まぁ、読まんでも、論文は書けているし、いいんだろうね。「論文を書く」ときの内容を具えていればいいからね。
だけれど、「なんでだ?」との疑問をベタに受けると、「まず読めよ」ってなっちゃう(ただ、その場合であっても、例えば、作用の観点から、要綱(行政)と行政計画の違いに触れるならば、行政指導について考えなければならず、行政作用法と行政手続法の関係を整理するため、結局、行政乃至行政法を体系的に理解することに努めることになるし、その際、ケーススタディーとして判例を見ることになって、「どこからどこまで読むか」と、立論に先立つ、問いを立てる範疇の限界を見極める問題に行き当たり、いかにも大学生らしい学びに関する悩みを招来する。大学生は言葉の意味を知って「終わり」とならない)。
その大学生の論文に言及して、云々、というのは、まぁ世の中の「悪い大人」の見本やねぇとしか思わない。大学生は卒業したら、そういう大人と対峙してゆくんやでぇ。
褒められてふわふわーっとして騙されとったら、アカンでぇ。
【昨日の読書①】
このアンリ・グイエというフランス人がまったく面白くなくって、数ページ眺めただけで、捨てようかと思ったが。邪魔なんだけれど、なんか捨てられずにいた。
『第五省察』においてようやく、数学の確実性の問題に到達する。しかし、それは、学問の問題であって、直観の問題ではない。神の誠実さは、明証性の記憶と神がその記憶に入りこむようなような証明との価値を保証する。明証性については、デカルトは、自分の思惟をこれに適用する限り、この明証性をまったく信じないことはできない、と明言している。
P.168
こいつは何をいうとんねんって話やけれど、
これ読むか理解せな、わからんよってこと。
2に関しては、
要は、「意志」の問題。デカルトは
その結論は、 神は私を欺かない 、ということではなく、実際、神にその能力がないがゆえに、 神が私を欺くことができない のでもなく、神が私を欺くことを望むことができない のである。
P.169
と喝破したと著者は主張する。これがルネサンスであって、「異教的」であると指摘される所以。デカルトはギリシャ哲学に着目したのだけれど、実は、イスラム神学者の批判した「ギリシャ哲学(=アリストテレス)」という話ではないかと思う。
大事なことはそれそのことではなく、フランス人がそれをおくびにも出さない、フランス人が絶対にそれを口にすることはない事実なんだよ。「私たち」が実はイスラム神学の「学問的洗礼」を受けていますってことを。
デカルトが直接対峙したのが、トマス主義とスコラ哲学だったらしい。
アブー・ハーミド・ムハンマド・ブン・ムハンマド・ガザーリー
1058年 - 1111年
カンタベリーのアンセルムス
1033年 - 1109年
この2人は同じ時間を生きたんだよね。アンセルムスはスコラ哲学の祖となった。
デカルトは近代以前の人で、近代に入ってからは、カントとドイツの時代になったから、デカルトは過去の人になった。いや、ヘレニズムとヘブライズムとゲルマニズムの調和的融合が「完成」を見て、「近世」を克服する近代という物語を以て忘却に成功した。そういうスタイルをもっているわけ。生々しい話はやめて()括弧に入れようぜって。
なるほど。現状のスケッチとしては参考になる。
ただ、上で言っている通り、「近代合理主義」に先立つ「近世合理主義」があったはずであり、デカルトはそれをライデン大学で展開したのではなかったか?
またデカルトの証明は、私たちがもつ観念の対象はなんであれ存在するという帰結を招く。これは個人の想念から神を見いだすことを可能とする考えである。ここから教会による媒介を否定する「熱狂主義 Enthusiasm」が支持されてしまう。さらに、デカルトは観念の原因を問うている。これは観念を一個の存在者とみなすことにほかならない。すると神の観念は存在者であり、これ自体が神となり、つまりは自らのうちに神ありと主張する熱狂家たちの主張に近づいてしまう(彼らはさらに自分たちは神だと主張しているわけだが)。
無神論者デカルト Verbeek, "Descartes and the Problem of Atheism" - オシテオサレテ
その論理手続きの解釈の誤りを
高橋が解説する。デカルトが観念のうちに展開するのは「 そう 考えればそう 考えるほど、そう 考えることが不可能」なことそのことである(様相論理)。
次に懐疑論である。絶対的な確実性を求め、蓋然的な知としてのアリストテレス主義を放棄するデカルトは、実際には懐疑を克服するに十分な議論を提出しておらず、結局は懐疑にとらわれてしまっている。デカルトやデカルトの支持者が見いだしていると主張している真理とは、彼らの妄想に過ぎない。
無神論者デカルト Verbeek, "Descartes and the Problem of Atheism" - オシテオサレテ
おそらく、デカルトが主張したのは(ソクラテスとストア派の)科学性であって、真理に関しては、当時の水準あって一般的な、「確からしさ」を述べたに過ぎなかったと思う。要は、一種の権威論法で、当時はそれが「妥当」と見做されたのだ(☞『確率の出現』)。
デカルトが「近代人」と見做されることの弊害がここに見出される。彼は 近代的近世人 に過ぎない。近代的評価を すべきではない 。
近代的評価 に落とし込んだ 、カントの歴史的な罪、「意志の罪」だろうと思う。
つまり、カントは、幾何的な論争をデカルトに挑んだのだった。
【昨日の読書②】