最近の社会の教科書の影響だろうか。一般的に理解される土壌が整っている。

でもさ、もう古いかもしれない。

ガサーリーはひとむかし前はアリストテレス主義者だと思われてたんだけれど、今は、新発見が当て、アリストテレスの批判者だって確定しているよね。

これが何で大事かって言うと、デカルトって、実はアリストテレスにも距離とっているからだよね(対照的に、熱心なアリストテレシャンだったのは、ライプニッツ)。そこらへんがデカルトの説明から欠落している。じゃあ誰かっていうと、ソクラテス

ソクラテスの評価って、アメリカ以外、そんなに大したことがない。
日本でも、プラトンの師匠で、まぁ、「無知の知」を唱えて、最後は自ら毒をあおって死んだってだけで、要は、日本の場合、吉田松陰みたいな扱いになっている。

そのせいか、デカルトの評価も微妙になっている。

  1. まず、デカルトの方法論として有名な「小さなことから大きなことへ」って単に、命題論理のことに過ぎなくて、(デカルトが言うところの)「名」の包含関係を(常識的に)言っているにすぎない。
    むしろ、このポイントは、アリストテレスの三段論法を 避けている 、、、、、 点にある。
  2. 有名な「我思う ゆえに 我あり」は、この包含関係の例で、〈我〉が中間項であることを言っているのに過ぎない。
    したがて、「神の存在証明」と対になっている。
    「思う」と「あり」は実在に於いて同等であり、これが、デカルトの主張である。
  3. デカルトは、ソクラテスに依拠して「枚挙的」であることを通して、それが「ただ一つに定まる」(科学的)方法として主張している。
  4. 要は、デカルトが言いたかったのは、曲線論だったのだ。
  5. ここで忘れられているのが、デカルトの宇宙観は、イスラム神学寄りで「最初があった」派であることだ☟note。「最初がある」ためには、宇宙の外に神が存在する必要があったのだ(そうであるがゆえに、無から有を唯一生み出すことができた)。ガザーリーによるアリストテレス批判の最大の山場もこれである。
  6. つまり、デカルトにとって、透視図法とは、そういうことであり、その方法を以て曲線論が普遍的に論じられることが可能であることが、大事だったのだ。

 

本人が「ソクラテスや」言うてんのに、徹底的に無視されるデカルト 


☞note

実は、デカルトは地動説を信じていたんだけれど、どうにも、天動説/地動説は、極めて政治臭い。実は「宇宙観」の問題ではない(技術問題である)。

もっとも重要な問題は、「宇宙に始まりがあるかないか」だったのだ。
神の存在と関わる根幹的な問題だった。

 

スーフィズム

スーフィズム(Sufism)は、イスラム教の宗教的な伝統の一部であり、イスラム教の精神的な側面を強調し、神との個人的な結びつきを追求する宗教的な運動および哲学的な体系です。スーフィズムは、イスラム教の神秘主義的な側面を追求し、愛、知識、個人的な変容を通じて神との結びつきを深めることを目指します。

スーフィズムの主要な要点として以下の点が挙げられます:

  1. 神への愛と熱狂: スーフィズムは、神への深い愛情や熱狂的な愛を強調します。スーフィズムの実践者は、神を愛し、神との結びつきを求めることを中心に置きます。

  2. 個人的な変容: スーフィズムは、個人的な変容と精神的な成長を追求する宗教的な実践を奨励します。この過程は「タスフィヤ」(精神的な浄化)と呼ばれ、自己認識、自己反省、道徳的な高潔さの向上を含みます。

  3. スーフィの指導者(シャイフ): スーフィズムの指導者は、スーフィズムの教義や実践を生徒に伝える役割を果たします。彼らはしばしばスピリチュアル・ガイドとして尊敬され、個人的な指導を提供します。

  4. 詩と音楽: スーフィズムには、詩や音楽が重要な役割を果たします。スーフィ詩人は神への愛や神秘的な経験を詠んだ詩を書き、スーフィ音楽(カワーリー、カワーリ、カワール等)は神秘的な結びつきを深めるための媒体として用いられます。

  5. 神秘的な経験: スーフィズムは神秘的な体験や直感的な理解を重視します。スーフィズムの実践者は、神との結びつきを通じて神秘的な洞察を獲得し、神の存在を感じることを追求します。

スーフィズムは、イスラム教の多くの宗派や地域で広く受け入れられており、異なるスーフィの教義や実践が存在します。一部のスーフィズムの教義や実践は、伝統的なイスラム法(シャリア)との調和を保ちながら、より個人的で内省的な宗教的経験を追求します。スーフィズムは、イスラム世界の文化や芸術にも大きな影響を与えており、詩や音楽、建築などの分野で多くの美術作品が生まれました。


デカルトホッブスを憐れんでいたかもしれないが、これがデカルトの誤解だと仮定する。

ホッブズにおいて自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。ところで自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ他人の暴力による死である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾があきらかになる。そのため理性の予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導く。自然法に従って人びとは、各自の自然権をただ一人の主権者に委ねることを契約する。だが、この契約は、自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でもない。自然権を委ねるとは、自然権の判断すなわち理性を委ねることである。ホッブズにおいて主権は、第一義的に国家理性なのである。また以上のことからあきらかなように、自然状態では自然法は貫徹されていないと考えられている。

トマス・ホッブズ - Wikipedia

 

—ファナーウとはナニデスカ

「ファナー(Fana)」は、スーフィズムイスラム教の神秘主義)における重要な概念の一つです。ファナーは、スーフィズムの実践者が神との結びつきを追求し、自己の存在を神の存在に溶け込ませる過程を指します。

具体的には、ファナーは個人的なアイデンティティやエゴ(自己)を超越し、神への完全な没頭と統一を意味します。スーフィズムでは、このファナーの状態に達することが、神との深い結びつきを実現し、精神的な成長と洞察をもたらすと信じられています。

ファナーの過程は、自己認識、自己犠牲、神への熱狂的な愛を含み、スーフィズムの実践者が自己の欲望や世俗的な関心を超越し、神を中心に置くことを追求する過程です。ファナーの達成により、個人は神の意志に従い、神の愛と智慧によって導かれると考えられています。

ファナーと関連する概念として、「バカ(Baqaa)」があります。バカーはファナーの後の段階で、神との統一の状態を維持し、同時に日常生活を送ることを意味します。この過程を通じて、スーフィズムの実践者は神の存在を常に感じ、神聖な視点から世界を見ることができるとされています。

ファナーとバカーはスーフィズムの実践における目標の一部であり、神秘主義的な経験と精神的な成長を追求するスーフィの道の一部として広く理解されています。

ガザーリースーフィズムをどのように説きましたか

アル・ガザーリー(Al-GhazaliまたはAbu Hamid al-Ghazali)は、イスラムの哲学者、神秘主義者、法学者で、11世紀のペルシャ出身の学者です。アル・ガザーリーは、スーフィズムにおける重要な役割を果たし、その哲学と実践を大きく影響しました。彼は特に「イハーヤー・ウルム・アル=ディーン」("The Revival of Religious Sciences"、宗教科学の復興)という著作でスーフィズムに関する考えを発表しました。

アル・ガザーリースーフィズムにおける主要な貢献は、以下のような点に関連しています:

  1. 内面の宗教体験: アル・ガザーリーは、スーフィズムを通じて、宗教体験を重視しました。彼は外部の宗教的な儀式だけでなく、内面での神への経験を強調しました。彼は神秘主義的な経験を通じて、個人が神との深い結びつきを持つことができると信じました。

  2. 自己認識と精神的な浄化: アル・ガザーリーは、個人的な自己認識と精神的な浄化の重要性を強調しました。彼は個人が自己の欠陥と誤りを認識し、それらを修正するための努力を通じて神に近づくと述べました。

  3. 信仰と知識の統合: アル・ガザーリーは、スーフィズムイスラムの信仰と知識を統合する試みをしました。彼は信仰と知識が調和することで、個人が神を理解し、愛し、神聖な道を歩むことができると論じました。

アル・ガザーリーの著作はイスラム世界全体で広く読まれ、スーフィズムの理解と実践に大きな影響を与えました。彼のスーフィズムに関する見解は、後のスーフィ宗教者や哲学者によっても称賛され、スーフィズムの伝統における重要な要素となりました。

 

すなわち、デカルトホッブスがともにガザーリアンだとしても、アル・ガザ―リー自身に変遷があったのだ。

プラトンホッブズの違いの基にあるのは二つの非常に異なった理性の概念で ある。多くの現代の哲学者と同様,ホッブズにとって,理性は純粋に道具的で ある。つまり,それはわれわれに目的や目標を与えるのではなく,その目的に 到達するための手段を与えるだけである。欲望はわれわれが何を欲しているか を告げる。理性はそれをいかに獲得するかの方法を教える。プラトンにとって も理性は道具的機能を持っている。しかしプラトンは理性が実在的な側面も持っ ていると考える。理性がわれわれに告げるのは欲しいものを得るためにどのよ うに取り掛かるべきかということだけでなく,ものの自然本性的な秩序に従っ て生きるべきならば先ず第一に何を欲すべきかをも教える。理性はわれわれに われわれの真の本性にしたがってわれわれが真に何を欲しているかを教えるの である。

プラトン対ホッブズ──実在的知性と道具的知性

非常に複雑なことに、イスラム哲学者のアリストテレス理解には当初ネオプラトニズムが紛れ込んでいたらしいのだ。
そうすると、ガザ―リー以前とガザーリー以降とガザ―リー自身の変遷を分別して理解することも求められる。

ここで論じられるべきは、ガザ―リーではなく、ホッブスであって、ホッブスの著作『リヴァイアサン』や、『物体論』或いはそれに基づいたデカルトへの質問に、ネオプラトニズムかもしくはスーフィズムの影響が見出せるかである。

 


ホッブスが、後のロックやルソーに比べ、「冷淡」に扱われるのもどうもこの辺にあるのではないか?つまり、宗教的態度の違いである。
デカルトパスカルから「異教的」と罵られたが、ホッブスデカルトから見ても「異教的」だったのではないか?