私は一当事者としてトランスジェンダー問題に大いに関心をもっていますが、トランスヘイトに加担などしておらず、また谷口原論文もそのような趣旨のものではありません(査読者の誤読だと思います)。谷口氏と私の間には自認問題に関して対立があり、それを学術的に議論したいと思っているだけです。 https://t.co/mgWIaskRBT
— 永井均 (@hitoshinagai1) December 29, 2023
永井哲学などそもそも大したものではなく、問題を哲学的問題に限定することもおかしいに決まっているが、とはいえ「指導教官は学生の面倒を見るべき」みたいな話はそれはそれでおかしいだろう。小学生じゃないんだから。
— Tosei Moriwaki / 森脇透青 (@satodex) December 29, 2023
トランスヘイトは決して許してはならない。しかし「しかねないとされている」にはまさにその逆の問題があり、「しかねないとする」認定権を持つ思想警察の存在もまた決して許してはならないのだ。これは20世紀の教訓だろう。かつては「プロレタリアート」が祭り上げられ利用された。まだ記憶に新しい。 https://t.co/LZr7W8mJ28
— 永井均 (@hitoshinagai1) December 29, 2023
いまだ、哲学があらゆる問題に対して、あるいはあらゆる「思想警察」に対してメタに立てるという幻想をベタに持てる愚かな「哲学者」がいるのは驚きでしかなく、思考の怠惰としかいえない。その幻想がありえないというところからしか哲学はありえないし、超越論的な立場というものもありえない。
— Tosei Moriwaki / 森脇透青 (@satodex) December 29, 2023
下線強調は引用者
【所感】
- ここで問題になっているいるのは、おそらく、基本的に分析哲学と法哲学の混同である
- そこに、超越論的な観念派が関わっているが、それは戦前の哲学思潮と戦後の哲学思潮としてわけるのが健全であるとき、戦前に世界を席巻した事実がある
- しかし、そこでトリックスターになるのがマルクスで、事実認定の問題として、彼は戦前の哲学者に過ぎないが、「マルクス哲学」の最盛期は、戦後に訪れた
- これらは、近代化の課程で起きたことである
- 近代社会をポスト近世社会と当然に考えたとき、近代化とは脱近世化であり、対象になるのがキリスト教であったとき、その中心に居たのがカントである。
オカルトの席巻は、19世紀科学革命のバックラッシュであったに過ぎないが、それ以前のキリスト教社会が到達した幾何的世界観をリバイバルさせるための新しい運動と新しい思想の展開として起こった。
すくなくとも、マルクスの流行はこの文脈に位置付けられるし、カント自身ドイツ観念派を生んだが、ヘーゲル哲学の流行と共に忘れ去られて久しかったカントを復活させた新カント派がこの文脈に位置付けられるかは興味深く、なぜなら、戦後社会は、瞬間のカントの理想の達成を放棄した、カント的世界観の克服から事実上始まったからだ。
カントの功績はキリスト教社会を擁護したデカルト批判(としては、長いデカルト批判の歴史の中で、最後のデカルト批判)であったが、カント自身もまた幾何的世界観の中に居たと言えるだろう。
トランスジェンダーの問題は、抽象的な法概念と実際上の法技術の混同に過ぎないが(ここで置き去りにされているのが、①ペドフィリアの胚胎する「おとなこども問題」に対するのと同様に、自由に関して「苦しむ自由」を認めていない点と②私的空間と分けられる公共空間—これ自体は「公共」の定義と指向を明らかにする分析哲学による問題把握を必要とするが、これ—における「一人一トイレ」による公平の達成はそもそも法的解決の埒外とならざるを得ない社会調整の技術である法の便宜的性格である。)、これになぜ、着目したかというと、歴史学の害悪である。
markovproperty.hatenadiary.com
歴史学には、オースティンが「法の科学」に対する「法理学」(現在の法哲学)を立てたように、この文献考証の学問には、「歴史理学(歴史哲学)」を欠く。
それが拙いかどうかである。「超越論」と抽象概念の扱いを混同すべきか。
法学は抽象概念を扱い、実践的な「科学」である。それは、抽象概念は抽象概念として実在し、実践的な有効性を保証すると考えられたためだが、それ自体はとん挫した。しかし、法実証主義から分析哲学に引き継がれ、抽象概念を用いて法対象を操作対象として考える学問は残り、それとは別に、社会の実態に即して実践的な法技術を問う法律学は独立している。概念を共有できなければ、法技術が社会技術に過ぎないとき、その社会技術で構成される法が成立しないからだ。要は、概念操作も、共有できる性格に焦点を当てれば、契機が個人にあるだけで、一種の社会技術である(これは概念想起の身体性を言い当てており、心身一元論であるが、デカルトの流儀に従いつつ現代語に翻案すれば、「心」がサブルーチンとしての機能を持ち、経路的である。もとより、キリスト教徒デカルトの本願は心身一元論にあり、その中途の外観に過ぎない心身二元論がフィーチャーされたのは、カント以降の近代的解釈による。デカルト幾何学が主張したのは、この経路の確からしさに過ぎない。デカルトは「明晰」で有名であるが、その「明晰」はこの「確からしさ」への信念の裏付けがある。デカルトがフェルマーの接線法を受け入れられなかったのは、フェルマーがもっぱら実践的だった—実践的であるのに過ぎなかった—からであって、デカルトが求めたのは、ギリシャ哲学にあった、論理こそ神、というアリストテレスの信念に加え、ソクラテスからストア派に引き継がれたの矛盾的な中間命題を置いて達成される科学性であった※。技術的には、光学的な、立体図の平面図への投射である—立体図形の考察自体は、典型的なギリシャ幾何学である。光は神の暗喩えあり、そこに「確からしさ」への保証があった)。
※一方で「数こそ神」と信じたのはピュタゴラス学団であった。また、こういった意味で、デカルトは、元祖新ソクラテス学派と呼んで差し支えないと思う。これは、あまり喧伝されることはないが、現代アメリカに強い影響を与え続けている。ハーバード大学の法学メソッドで在り、プラグマティズムとはつまりはこれである。
歴史学に期待されるのは、かつてのような哲学ではなく、目指すべき総合的な学問としての「歴史大学」であるが(単科大学として成立する「歴史学」ではなく、総合大学として成立する「歴史大学」である。)、それに資するアイデアは、「学際的」と謂えばシンプルになるが、何であろう、実際には容易でない。
かつて、ウィンブルドン効果で、イギリス人プレイヤーは世界のプレイヤーの中に埋没したが、歴史学者もまた、この効果の中で、埋没しなければならないだろう。
歴史学に「歴史哲学」を欠くのは、歴史学(文献考証学)=歴史哲学として、暗に当然視してきたオカルト的発想に過ぎないが、今求められているのは、係る「歴史哲学」ではない。