夏目漱石の”two infinities”を比較しようと考えていたら、長くなった。

 

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とにかく、デカルトの「我思うゆえに我あり」が、ライプニッツモナド(個人)からの敷衍で在ったり、もうしっちゃかめっちゃかである。
そんなわけがねえだろ。
(カントもそうだが)ライプニッツデカルトを批判したのであって。
事実はどうも(或る意味)正反対で

 

 おいおい、デカルトさんよ。モナドっちゅうもんを延長とは別に考えんと、延長自体を考えられんやろうが。

 

と中国人が聴くと喜びそうなことを言ったのである(中国哲学にはそういう考え方が在る)。反対に謂うと、デカルトにとって、そんなことは関心の埒外だったのだ。
デカルトが腐心したのは(ギリシャ譲りの)「明証」(のメカニズム)である。
そして、よくよく「知っている人」に聞いてみると、「実在」のアイデア錬金術のそれだったのだ。だから「唯物論」ではない。ニュートン錬金術師だったけれど。かけあわせると「何か生まれる」のは共通見解だったのだ。それのどこをどう捻れば「モナド」になるんだ。
すなわち、デカルトは、アンセルムスと を繋いだ「可能論者」であっても、必ずしも「演繹論者」ではなかったのだ。ライプニッツにせよ、ポールロワイヤルにせよ、パスカルにせよ、不愉快だったのは、デカルトが「演繹論者」でなかったことだ。
そのデカルトに「モナド」なんて期待してどうする。

 

デカルトに関してはなぜか、近代的なら「なんでもあり」になっている。
いや、近代の黎明期(ルネサンス)の人だと思うけれど。
まだまだ色濃く、というか、実質的に、近世の神学世界に居て、ただ、ギリシャ哲学からスコラ哲学を批判しただけであって。

歴史の理解全般に謂えると思うが、「ポスト○○」という考えが一般的でないようである。だから、いきなり「近代」が現れる。

 

  1. デカルトは「モナド」を言っていない(ライプニッツの批判)
  2. デカルトは「可能性」と「必然性」とを言ってない(カントの批判)
  3. デカルトは(数としての)関数を言ってない(ニュートンオイラーの批判)
  4. デカルトは演繹を言っていない(パスカル、ポール・ロワイヤルの批判)

したがって、

  1. デカルトは近代的個人を言っていない
  2. デカルトは主体を(主語と区別して)言っていない
  3. デカルトは解析を言っていない
  4. デカルトは理論(体系)を言っていない

つまり、

  1. デカルト実在論を言っている
  2. デカルトは比較可能な命題を言っている
  3. デカルトは媒介論(機械論,方程式)を言っている
  4. デカルトは表現論(透視図法による作図)を言っている

すなわち、デカルトは、近代的個人ではなく、スコラ哲学の批判者として異教(ギリシャ)的な、しかしあくまでキリスト者として、神の被造物の自由意志論者に過ぎない。その際、(2に関して)むしろアンセルムスより後退しているのである

デカルトの「我思うゆえに我あり」と「神の存在証明」は表裏一体である。そこでは「完全」と「存在」の対比が可能な命題で提示されているだけである。カントの批判は「存在」が「完全」の目的となっていることであった。実は、カントは、裏からアンセルムスを導入して逆手を取ったに過ぎない(アンセルムスは「可能性」から「必然性」を導いたと言われている。ただし、アンセルムスは「証明」したのではなく、すでにあらわれた「存在」(具体物;非想像)であるキリストを「擁護」しただけである。これには神は神自身を対象にできないという問題も反映されている)。そのうえでカントの画期は神を「存在」の陰に隠して名指ししなくなったことであり、裏に隠した以上「言及する必要がない」と宣言してしまったことである。実は論理主義者たち、すなわちゲーデルスマリヤンは、カントの宣言を裏切って、アンセルムスを擁護して、現代的な論理学の成果を得たのであった。スマリヤンの様相論理K4とは、カントが「二律背反」と言って切り捨てた「無限」を信念体系として対象化して正当に論理に組み入れた方法論であった。

【アンセルムス(擁護)→デカルト(明証:表現)→カント(証明)→アンセルムスの三角形(三すくみ図)】
(図示)

【アンセルムスとデカルトの対照表】
アンセルムスの「可能性」→我「思う」(という「想像」に関する実在)
アンセルムスの「必然性」→我「在り」(という「存在」に関する実在)
が言語の媒介作用によって展開できる(がアンセルムスはそれを禁止している)
👇〈実在〉の性格について。それ自体存在でなく(存在に付随し)、それ自体真理でなく(真理に付随し)、それ自体概念でなく(概念に付随し)、表現され世界を稠密に満たすことが可能な目的因を含意すること。

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【比較検討】実無限と可能無限(におけるライプニッツ

実無限と可能無限によるカントールの対角線論法の考察

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上で「行列」というツールを用いて無限分数から展開式を描いたが、これをデカルトに準えるなら、可能な「行列」の構成を〈実在〉、それが並ぶことを〈無限〉、それぞれ適宜取り出されることが可能な各項を〈表現(作図)〉と呼んだだけである。
すなわち、ここでは「無限小」も「無限大」も必要がないのみならず、「可能性」も「必然性」もあらためて論じる必要もない。「完全」に表現可能ならば、現にそこに「存在」するからである。ライプニッツは「「不完全」で在り得ない」のではなく「完全」と言い得るなら、その「完全」自体を表現可能にすべきと主張したようだ(c.f.排中律を認める古典論理:神の論理と排中律を認めない直観主義論理:人間の論理。直観主義者であるポアンカレが実無限を否定したことに着目)。


スマリヤンに限らず、アマルティア・センにしろ、戦後の論理学者たちは、要は、カントの克服を「対象化」を以て成し遂げ、科学的に戦後を切り拓いたのである。
カントが偉大だと名実ともに思われていたのは、せいぜいフォン・ノイマンまでで、実際は戦前の話である。


したがって、デカルトの「我思うゆえに我あり」がアウグスティヌスを引いているとは考えにくい。あくまで、直観論ではなく、言語作用を信頼した(きわめて異教的な、ギリシャ的な)媒介論なのであった。