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これはすごく良い指摘で、何が素晴らしいかというと。

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カンタベリーのアンセルムス(羅: Anselmus Cantuariensis, 1033年 - 1109年4月21日)

 アウグスティヌスによれば、知識は「時間的なものにおける理性的な精神の職務」にあたるもの、知恵は「観想すべき永遠なるものに専念する精神の職務」なのである。こうして第14巻で、人間の精神の解明こそが三位一体の解明にあたると宣言をし、もはや父と子と聖霊に関する旧パラダイムには戻らないことを鮮明にした。

 最終の第15巻、この三位一体論が新たなパラダイムとしての人間論であったことを証し、その追求がないかぎり神の論理は今後一歩も前進できないことを告示する。これで証明終わり、QED。ついにアウグスティヌスは「神の論理を人の論理に」してしまったのだ。

0733夜 『三位一体論』 アウグスティヌス − 松岡正剛の千夜千冊

 

http://www.ic.nanzan-u.ac.jp/JINBUN/Christ/NJTS/040-Asai.pdf

2-1.   

( a-1 ) 

もしわたしがあやまちを侵したと気づいたときには 考えや振る舞いについて間違う行為とそれに気づき正す行為とがあると知られこのふたつの――時間的な隔たりのある――コトをとおして わたしはそのどちらについてもわたし〔が行為主体〕であることを確認します。

   《わたし》というもの(こと)の自己同一性(アイデンティティ)です。    ――この自己・このわたしがあると知られます。

2-2.  

( a-2 ) わたしはもし誰かにあざむかれたとしますとそうだとしてもその欺かれたというコトは わたしが存在していなければ成され得ないことです。

   犬や猫も存在しているとすればそう見なされると思うのですが つまり もしそれらを人間がだましたとして ひとつに 存在しているとする限りで だからだまし得たとなるでしょうし もし存在などしていないと見るならそのダマシなどはあって無きがごとしとなるでしょう。

そのようにです。

デカルトのコギトは アウグスティヌスからのパクリである。

アウグスティヌスのこの主張は、そのまま論証となっている。

2-1 善の存在証明

2-2 悪の存在証明

補題 善悪の存在証明

結論 〈主体〉の存在証明

語彙 〈時間〉〈愛〉〈恩寵〉

この善の存在証明と悪の存在証明を

【比較検討】姦淫について

http://www.miyadai.com/index.php?itemid=588

聖書の名言「情欲を抱いて女を見る者は、心の中で姦淫した」はどう役に立つ?|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部

人物名 生年 主著
アウグスティヌス 354年-430年

『告白』

『三位一体論』

神の国

カンタベリーのアンセルムス 1033年 - 1109年 『独白』
『対語録(神の存在についての対話)』
ルネ・デカルト 1594年 - 1650年 『みずからの理性を正しく導き、もろもろの学問において真理を探究するための方法についての序説およびこの方法の試論(屈折光学・気象学・幾何学)』
ブレーズ・パスカル 1623年 - 1662年  

※ニカイア・コンスタンティノポリス信条(381年)

先に述べられているように、アリウスの思想は教会の基本的理解から逸脱[10]している。このアリウスの神に対する概念はギリシャ的[19][注釈 5]であり、アリウスの教義によって、長い間隠れていた従属説の潜在的な危険が表面化した

アリウス派 - Wikipedia

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  アンセルムス 注解 デカルト アウグスティヌス
定義 神は、それよりも大なるものが可能でない存在である。 2-3 2-4 2-5
仮定1 神は、理解において存在する。 3-3 3-4 3-5
仮定2 神は、事実において存在する可能性がある。 神が 4-4 4-5
仮定3 もし任意の対象が、理解においてのみ存在し、事実において存在する可能性があれば、その対象は、それ自身よりも大なる可能性がある。[可能性] 5-3 5-4 5-5
背理4 神は、理解においてのみ存在すると仮定する。 6-3 6-4 6-5
背理5 神は、神自身よりも大なる可能性がある。 神が   7-5
背理6 神は、神自信よりも大なるものが可能な対象となる。 神が 8-4 8-5
背理7 それよりも大なるものが可能でない対称が、それよりも可能な対象となる。 9-3 9-4 9-5
背理8 神は、理解においてのみ存在することはない。 10-3 10-4 10-5
結露 神は、事実において存在しなければならない。[必然性] 11-3 11-4 11-5

PP204-205,『ゲーデルの哲学 不完全性定理と神の存在論高橋昌一郎,株式会社講談社,1999.8
【論点】

  1. 〈可能〉とは〈比〉である
  2. 〈可能で-ある〉とは〈判断(理性)〉である
  3. 〈可能で-ない〉とは非〈比〉即〈1(全体)〉で〈ある〉
  4. 理解とは、理性の働きである
  5. 事実(具象)としての神は、キリストである
  6. 〈対象〉とは〈判断〉の手段である

【参照】

  1. ルネサンス期における"probability(蓋然性;確からしさ)"
  2. カントの数学観

『確率の出現』イアンハッキング,慶應義塾大学出版会,2013.12


これだけだとほぼ何を言っているかわからないが、実は、上の命題はすべて「私は『』と認める」という証言になっている。

私の理性の働きに於いて、神が不可能な存在であるところ、或る可能な対象として理性の判断に委ねるならば、矛盾をきたす、という主張である。

〈理性〉なくして、〈存在〉がある、ことがない、ならば、〈存在〉があるとき〈理性〉はある。

つまり、現に(具象の事実である)キリストの降臨があったときに、それをどう理解するかを三位一体に引き寄せて考えたときに、天の神を考えないわけにはゆかない。

このとき、理性の働きを無媒介の直観作用{}とすると、神→{神}は自明であるが、{神}→神が可能であるかを考えるとは、{{神}→神}であり、神を対象化できないので、神は無対象な(操作不可能な)存在である、とのキリストと三位一体の擁護である。このとき、可能な判断の具体性に量を比を用いた、ということであり、それは具体性を与えただけなので、判断不可能である、(判断不可能ならば対象化可能でない)ならば、対象化不可能である、というロジックである。このとき、アンセルムスの用意した「大きさ」は具体的な解決である。