It follows that either one of the theses x or not-x must be true. Hence, if I disprove not-x, x is affirmed.
PRINCE SHOTOKU'S CONSTITUTION P87 LL1-2
聖徳太子の三段論法をオックスフォードも認めていたことを素直に受け入れるには、ニュアンスを理解して和訳すればよいのではないかと思う。
[大前提A]
(大前提Aを受け入れた結果) 当然、(命題)Xさもなければ(排他的選言命題)反Xの、それら命題のうちいずれか一方が真であるしかない。
したがって、〈私が〉反Xを反証すれば、X〈が〉(私に)確証される。
これを選言三段論法と謂うことができるはずである。
(選言三段論法 - Wikipedia)
問題は、イギリス人に自明なことが、日本人には2000年も自明でなかったことだ。これは真に驚くべきことである。
誠に早とちりで残念だったが、あらためて読んでみたら、西欧の(アリストテレス)話だった。日本は儒教と仏教の影響から言及されていたので
Strategies for Assimilating the New and Foreign
The Oxford Handbook of Japanese Philosophy (Oxford Handbooks) (p.84). Oxford University Press. Kindle 版.
多分、その「違い」はこれに係って来るから、なぜ、そうなったかのロジックが明らかになれば、面白い。聖徳太子の三段論法は梶原一騎と同じ(ターナーの)コミュニタスで論理的に明らかになればやはり面白い。
Bret W. Davis - Philosophy Department - Loyola University Maryland
mustのコアイメージは「これしかないモノが迫ってくる」です。
affirmの意味は「正しいと断言する」で、語源はad(方向)とfirmare(強くする)に由来し、同義語はassert, declare, assureです。affirmは自分の発言などに間違いがないと断言するときに使われます。例えば冤罪で逮捕されてしまった場合は、身の潔白を断言しましょう(to affirm one’s innocence)。
赤字強調は引用者
〈所有格の〉で説明されるべきこと。→〈が格〉
Affirm [確証]
Japanese - English Dictionary - Affirm words [確証の言葉] - Tanoshii Japanese
主語の輪郭を明らかにすることで、より様相的な性質が見て取れ、
命題、宣言、発話 (PP-21-35言語における意味)
の違いに敏感になる。
このような〈判断〉を求める信念体系が当然視されていたのだ。
markovproperty.hatenadiary.com
👆で言ったことを、きちんと研究されている方がいた。
「聖書の権威(auctoritas scripturae)に全く頼ることなく」証明することを試みる;しかしそれは「ratioを通して信仰に達するためではなく」、「信じている事柄のintellectusに喜びを見いだすため」である(Cur Deus Homo, 1,47)。
ここで、ratitoとintellectum(理解)に着目する。
ロゴス - Wikipedia
テルトゥリアヌス 「不合理ゆえにわれ信ず」(credo quia absurdum)
アウグスティヌス=アンセルムス
「理解を探究する信仰」(fides quaerens intellectum)
プラトンおよびアリストテレス哲学の助けをかりて
fides quaerens intellectumとは - コトバンク
アンセルムスの『ratioを通して信仰に達するためではなく』はそのまま存在証明に定義される。すなわち、アンセルムスの「理解」とは ratio ではない。
これは意外にキーではないかと思う。
つまり、「理解する」とは「比較する」ことを最初から排除しているのだ。
では何なのか。
「神は存在する」は決して「或る神個体が存在する」ということではない。唯名論者ロスケリヌスの三位一体論批判は、神を個体として理解した上での「もし神において三位が一つの実在であって、三つの実在ではなければ、子と共に父と聖霊も受肉したことになる」とするものであるとアンセルムスは理解した上でこれに対立したのであり、その際には神を個体 的に把握するのではなく普遍として把握することによって三位一体論を弁護していると解せられる(4) 。
(4) Epistolae de incarnatione verbi prior recensio(I.281-290).,Epistola de incarnatione verbi(Ⅱ.3-35)参照。
オッカムについての解説もあった。
どうしても『概念』、特に主語と述語なんだよね。
それ、中国語の影響じゃないかなぁ。まだ、冠詞、定冠詞なら、わかる。
論理の画期は、「神を説明してよい」としたことじゃないかと思う。
だから、「神」の入った文を見たとき、「神」以外のことが大事となった。
このとき、例えば墨子ならば「白馬は馬ではない」と言ったのが「概念主義」であって、「馬」には馬の「白馬」には白馬の独立した概念があると信じた(「白馬」は「白い」「馬」という2概念の結合ではなく、「白馬」という1概念であるというのが墨子である)。
- 理論F 概念は想像された虚像fictumである
- 理論Q1 概念は心のうちに、基体として把握され得る仕方で存在する質であって、理解する働きとは区別される
- 理論Q2 概念は質であり、かつ理解する働きそのものである
ここでアンセルムスの証明を思い出すと、アリストテレス的な「類似」は排除され、質であるから『喜び』となる。ここで高橋のゲーデル理解の解説を思い出すと、「比較するときに限り、それは偽となる」。
オッカムの証明を、高橋は「対象化」といい、清水は「記号化」という。
オッカムの理論Q1では「外なるロゴス(音声記号)」のことだろうか?
少なくともQ2においては「内なるロゴス(自然記号)」である。
このとき、媒介せずに、人間の本性(自然)として「理解」できることとなった。
すなわち、「不合理ゆえ」ではなく「比較不可能ゆえ」に我信ずる。
「理解する」=「分別する」ではなくなり、これは清水の謂う「普遍(への到達)」であるだろう。「理解する」ゆえの「普遍」である。
もう一度、アンセルムスの定義を思い出す。
神〈は〉、それより大なるもの〈が〉可能でない対象である。
ここで、「読解」してしまうと、
神〈は〉或る対象であり、
かつ、
それはそれよりだいなるもの〈が〉可能でない(対象である)
としてしまうところであるが、今見た通り、そうではない。
神〈は〉対象であり、
かつ、
(ここで謂う)対象とは、それより大なるもの〈が〉可能でない(ことを)
理解(すること)である。
そのとき、論証とは、定義の内容の展開、就中〈が〉の示す内容の含意するところを展開する意義を持つ。これは本性に於いてすでに理解していることを明らかにしただけである。〈は〉と〈が〉の位置関係が端的にそれを示している。
これが論理である。
最後に、念のために以前に見た来たところを再見する。
オッカムのウィリアムの『論理学大全』で推断の理論の完全に発達した姿がみられる。そこでオッカムは「質量的な」推断と「形式的な」推断とを区別しているが、これは大まかに言ってそれぞれ現代の論理包含と論理的示唆と同等である。
ここからルターの所有格〈の〉発見が論理的包含を以て救済を意味せしめ、こうして聖書による論理的示唆を是とするプロテスタントが生まれた。
さらに、ルターとともにあったツヴィングリが(ルターの主張した)「共在説」からパラドックスを適示し、この時代の「論理学」はエレガントな領域に到達したと思う。
この後は、むしろ後退してゆく。