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芥川は「主知的」であると評価された。

超越的実在(神)の証明すら可能であるとする立場で,主知的な傾向が強い。

合理論とは - コトバンク

『歯車』とゲーデルの神の存在証明とを比べてみる。

ゲーデル存在論的証明は記号で書かれているので、高橋昌一郎の表現になる。之とは別に、ゲーデルには『哲学的見解』(14条)がある。

ゲーデルは若いうちからあらゆる数学に通じて、最後は神学にたどり着いた。

13 科学的哲学と神学がある。これらの学問は、もっとも高度な抽象化概念を扱う。これらが、科学において、最も有益な研究である。

私の哲学的見解(1960年ごろ),数学から哲学へ

今でもこのテーゼが有効かはわからないが、ゲーデルの科学のひとつの源泉であり、到達点であったことは言えるだろう。

ゲーデルがその後に、アインシュタインと最も濃密な親交を結んで相対性理論から回転宇宙論を導き出したこと、ライプニッツの存在学とフッサール現象学の研究に打ちこんだこと、その流れかどうかはわからないのだが、晩年にはプラトン主義とオカルティズムにどんどん片寄っていったことを付言して、床屋のパラドクスにはじまった今夜の話をひとまず閉じたいとおもう。  実はゲーデルは眠くなると、すぐにすべてを打ち切る趣味の持ち主だったのだ。

1058 - 松岡正剛の千夜千冊

何言ってんだ、本当に。
上の話でゲーデルの研究者生活としてあまり意味がないのがアインシュタインの回転宇宙じゃねえか。あれはただの遊びで、研究じゃない。でもほかのことは全部研究に関係ある。
ただのミーハーでゲーデルに興味ないでしょ?
別にいいけれど。

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一方で、聖徳太子の三段論法をオックスフォードの説明を翻訳しながら、梶原一騎の三段論法と比べてみる。

そのとき、法論理の三段論法の(アリストテレスの三段論法と比較したときの)「曖昧さ」を参照してみる。

そこにヴィクター・ターナー図式が入っているかを中心に。

そこから、丸谷才一の「カーニバル文学」の文学史的位置付けを考察する。

 

スマリヤンはアロンゾ・チャーチの弟子で老荘哲学者でもある。梶原一騎の3歳年上。
ゲーデルは言わずと知れたゲーデルだが、ダダイスト吉行エイスケや「無頼派坂口安吾らと同じ歳である。志賀直哉は「無頼派」と相当感情的に応酬したようだが、志賀は乃木希典も「非文明的」と嫌っていたし、『小僧の神様』は確かに、以下の意味で「文明的」かもしれない。志賀と太宰のことは多分に気質の衝突ではないかと思う。

 

 

英語から翻訳-プロスロジオンは、1077年から1078年にカンタベリーの中世聖職者聖アンセルムによって書かれた祈りであり、神が一見矛盾した性質をどのように持つことができるかを説明するために神の属性を反映する働きをします。この瞑想は、神の存在についての存在論的議論を提示した最初の既知の哲学的定式化であると考えられています。 ウィキペディア(英語)

Proslogion - Wikipedia

赤字強調は引用者

この『『対語録(プロスロジオン)』は祈り(或いは瞑想)である。』ということであるが、

Christian meditation is the process of deliberately focusing on specific thoughts (such as a Bible passage) and reflecting on their meaning in the context of the love of God

Christian meditation - Wikipedia

「瞑想」は神の啓示を直観乃至それ(神の啓示)に反応するよう試みられた作法(形式)のことらしい。その聞き取りを記録したらしい。
これだけ聞いても、なんのこっちゃとなるが、アリストテレスの何が画期であったかを考えると、少しわかりみが味わえるかもしれない。

神がかりになったデルポイの巫女(ピューティアーやシビュッラ)によって謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。

デルポイ - Wikipedia

赤字強調は引用者
ソクラテスはわざわざ遠路聴きにゆかなければならなかった。
すでに手元に聖書がある。『謎めい』ているのに違いはない。
読んでもわからないから、虚心坦懐に考えるのであるが、形式に則ることで正当化を図るのである。アリストテレスは『謎』即ち、ミステリーはテキストそのものにあると考えた所が画期だ。責任(不利益)をテキストの押し付けたのである。
すなわち、作法は、「人」にあるのではなく、「テキスト」そのものにある。
そのとき、『新しい』アイデアも、「人」に訪れるのではなく、「テキスト」そのものに訪れる。

Christian meditation is a form of prayer in which a structured attempt is made to become aware of and reflect upon the revelations of God.

Christian meditation - Wikipedia

赤字強調は引用者
テキストに a form in which a structured attempt を見たのがアリストテレスということになり、アンセルムスもそれを受け継いでいるようだ。人の作法とテキストの作法が統合された。