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芥川は「主知的」であると評価された。
超越的実在(神)の証明すら可能であるとする立場で,主知的な傾向が強い。
『歯車』とゲーデルの神の存在証明とを比べてみる。
一方で、聖徳太子の三段論法をオックスフォードの説明を翻訳しながら、梶原一騎の三段論法と比べてみる。
そのとき、法論理の三段論法の(アリストテレスの三段論法と比較したときの)「曖昧さ」を参照してみる。
そこにヴィクター・ターナー図式が入っているかを中心に。
そこから、丸谷才一の「カーニバル文学」の文学史的位置付けを考察する。
彼は聖書の権威に盲目的に頼る信仰を批判し、「理解するために信仰する」と述べたことで知られる。
存在論的証明は、観察や経験ではなく。神の定義や概念そのものから神の存在を導く方法である。推論方法は演繹であり、そのため「ア・プリオリな証明」とも呼ばれる。
アンセルムスの「発明」はこの定義に在るとされる。
定 義 | 神〈は〉、それよりも大なるもの〈が〉可能でない対象である。 |
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3つの仮定を置く。
仮定1 | 神〈は〉、理解において存在する。 |
---|---|
仮定2 | 神〈は〉、事実において存在する可能性〈が〉ある。[可能性] |
仮定3 | もし任意の対象〈が〉、理解においてのみ存在し、事実に置いて存在する可能性〈が〉あれば、その対象〈は〉、それ自身よりも大なる可能性〈が〉ある。 |
背理法を使う。
背理4 | 神〈は〉、理解においてのみ存在すると仮定する。 |
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背理5 |
神〈は〉、神自身よりも大なる可能性〈が〉ある。 |
背理6 |
神〈は〉、神自身よりも大なるもの〈が〉可能な対象となる。 |
背理7 | それよりも大なるもの〈が〉可能でない対象〈が〉、それよりも大なるもの〈が〉可能な対象となる。 |
背理8 | 神〈は〉、理解においてのみ存在すること〈は〉ない。 |
可能性から必然性を導く。
結 論 | 神〈は〉、事実において存在しなければならない。[必然性] |
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(『プロスタギオン』,1078,アンセルムス)
また、アンセルムスの『瞑想』を理解するには、アンセルムス以前の議論を参照しなければならないのも、(意外に見落としがちな※)大きな特徴だろうと思う。
※日本人は中国的な「文辞(概念)」と「坐禅(直指)」に影響を受けすぎていると思う。
その前に、アンセルムスの存在論的証明をどのように理解すべきか。
高橋の説明では、Raymond Merrill Smullyan レイモンド・スマリヤンの『抜き打ちテストのパラドックス』を参照する。
クルト・ゲーデル 1906年(明治39年)4月28日 - 1978年(昭和53年)1月14日
レイモンド・メリル・スマリヤン
1919年(大正08年)5月25日 - 2017年(平成29年)2月06日
スマリヤンはアロンゾ・チャーチの弟子で老荘哲学者でもある。梶原一騎の3歳年上。
ゲーデルは言わずと知れたゲーデルだ。
スマリヤンの様相論理体系 K4 においては、「Aを信じるときに限ってAではない」というゲーデル命題を厳密に定義できる。これは「Aを信じるときに限ってAである」という命題と同値である。
『抜き打ちテストのパラドックス』は、自己言及のパラドックスを拡張して、相互言及的なパラドックスを構成するという。
様相論理体系 K4 は以下の通り。
第一の規則(モーダス・ポネンス)
前提1 | もしAならばBであることを信じる |
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前提2 | Aを信じる |
結 論 | Bを信じる。 |
第二の規則(自意識)
前 提 | Aを信じる。 |
---|---|
結 論 | Aを信じること自体を信じる。 |
第三の規則(現実の認識)
前 提 | Aである。 |
---|---|
結 論 | Aを信じる。 |
(P82 高橋より)
まとめると以下の通り。なお、K(A)をAを信じることを意味する
- K(A)→K(B),K(A)|K(B)
- K(A)→K(K(A))
- A→K(A)
モーダスポネンス - Wikipedia(前件肯定)(P→Q)∧ P ⊢ Q
モーダストレンス - Wikipedia(後件否定)(P→Q)∧ ¬Q ⊢ ¬P
さて、抜き打ちテストは以下の通り行う。
要項1 いずれかの日にテストを行う
要項2 どの日にテストを行うかは、(生徒は)当日にならなければわからない
赤字強調は原文に補足
(そもそも様相論理とは可能/必然を扱うが、)簡単に、要項1を義務論理 A(テストを行う判断をする)、要項2を時制論理 B(前日にわからない・当日になるとわかる)を以てA→Bとして、認知論理(様相論理体系 K4 )で理解すると、
- ¬K(B)→¬K(A),¬K(B)|¬K(A)
¬要項2 → ¬要項1 - ¬K(A))→K(¬K(A)))
- ¬要項2 → ¬要項1 ≡ 要項1 → 要項2
- K(A)→K(K(A))
よくわからないので、適当に書いているが、
1最終日までテストを行わなかったので、テストを行うなら前日にわかってしまったので、2(要項2に反して)テストは行われないことへの信念を持ったが。。。
ここでテストを行ったら、テストを行うことをわかっていなかったことになるので要項2に反しない。ことに関して他の生徒は信念を持っていた。このとき、教師の矛盾があきらかになるのが相互参照ということらしい(「(可能な)Aを信じるときに限って(矛盾を必然的に帰結し、背理で)Aではない」ー可能が必然を導く)。
どの生徒も下図のような同時参照を禁じられているため、(番号を振られてc.f.自己言及)順次参照をしてゆき、決定しない。
生徒全体では「わからない」ので(法哲学における「個人」:特殊な団体で、個人も団体も等価であるなら、)
ただ、自己言及にしても、Fm →Fm+1,m≧2のとき、前後で参照しあうからこそパラドクスなのであって、スマリヤンの信念を導引した認知論理(様相論理体系 K4 )の意義がまだわからない。事実として「相互参照」するのではなく、相互参照の定義を厳密に置くことに意義があるはずである。
上図は『天国への扉』(どちらの扉が天国行かわからないとき、それぞれの扉に立つ門番のいずれかに一度だけ質問をしてよい。ただし、どちらかが本当のことしか言わずで、どちらかが反対のことしか言わないが、どちらがどちからわからない。)の同時参照による一意の決定と、下図は『抜き打ちテスト』の相互参照しているがゆえに可能な条件として(1,0)を仮に置いても必然的に矛盾を導く(真理値0となる)ことを説明している(つもりだが、うまくゆかない)。
この問題を考える前にどのような議論があったか。
まず、アンセルムスの『瞑想』とはどのようなことであったか。
英語から翻訳-プロスロジオンは、1077年から1078年にカンタベリーの中世聖職者聖アンセルムによって書かれた祈りであり、神が一見矛盾した性質をどのように持つことができるかを説明するために神の属性を反映する働きをします。この瞑想は、神の存在についての存在論的議論を提示した最初の既知の哲学的定式化であると考えられています。 ウィキペディア(英語)
赤字強調は引用者
この『対語録(プロスロジオン)』は祈り(或いは瞑想)である。』ということであるが、
Christian meditation is the process of deliberately focusing on specific thoughts (such as a Bible passage) and reflecting on their meaning in the context of the love of God
「瞑想」は神の啓示を直観乃至それ(神の啓示)に反応するよう試みられた作法(形式)のことらしい。その聞き取りを記録したらしい。
- 神は唯一である
- イエスは神である(被造物ではない)
- 聖書は媒介物ではない
そうすると、
定 義 | 神〈は〉、唯一の神である。 |
---|---|
このように書き換えられる。
仮定1 | 神〈は〉、天上に存在する。 |
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仮定2 | イエス〈は〉、救済である。[可能性] |
仮定3 | 三位一体は正しい(イエス〈は〉、位格である) |
実は、「神の存在証明」ではなく「イエスが神であることの証明」だったのではないだろうか。
すなわち、「存在」とはイエスを指している。
このことによって、神の唯一性とイエスによる救済を導こうとしたとしたら。
「神が最も大きい」とは格段アンセルムスの「発明」ではなく、そうしなければ神は(相対化された対象であり)多神教を受け入れることになるという議論がすでにあったのだ。
『アンセルムスの推論が独創的なのは「可能性」から「必然性」導こうとする論法である。』(P205)
『神学史上、アンセルムスが高く評価されたのは、神を「それよりも大なるものが可能でない対象」と明確に定義した点にある。』(P207)
アンセルムスを評価すべきなのは、「神は神の被造物か」と問う自己言及によって、主体と対象が構造的に決定していることを論証によって明らかにした点にある。
「無からの創造」の教義は彼らにとって、神と被造物の間には完全な断絶があることを意味していたからである。神と世界の間には、両者を媒介するどのような領域も存在しないのである。
赤字強調は引用者
主教アレクサンドロスやアタナシオスが神のロゴス(キリスト)を厳密な意味で神の領域に帰したのに対し、ルキアノスやアリウスはロゴス(キリスト)を被造物の領域に帰したのである。
赤字強調は引用者
アタナシオスによれば、アリウス派は多神教に行き着くために、唯一神信仰に反する。また、アリウス派は救いが被造物によって実現したと主張することになるために、彼の救済論と対立する。
赤字強調は引用者
正教会においては、「三つが一つであり、一つが三つというのは理解を超えていること」とし、三位一体についても「理解する」対象ではなく「信じる」対象としての神秘であると強調される[16]。
カトリック教会においても、神は自身が三位一体である事を啓示・暗示してきたが、神自身が三位一体であることは理性のみでは知り得ないだけでなく、神の御子の受肉と聖霊の派遣以前には、イスラエルの民の信仰でも知り得なかった神秘であるとされる
アンセルムスの存在論的論証はガウニロが「神」を「島」にかえた『並行推論』で反駁された。アンセルムスは神以外に存在論的証明を用いてはならないと述べたが理由を語らなかったらしい。
私が考えた理由は、以上のとおりである。
https://phil.flet.keio.ac.jp/person/nakagawa/courses/proslogion4.pdf