色環を人文学は発見できるか

 

markovproperty.hatenadiary.com

ジェンダー問題を考える時、それを「ジェンダー問題」として考えるべきか、「イデオロギー問題」として考えるべきか、悩んでしまう。

 

どうも、「論理国語」と「現代国語(文芸国語)」の対立は、心理学的論理学と実証論理学(分析哲学)の対立が根底にあり、前者は「人間」を(原基に据えた、人間)構造からの認識論で(したがって、存在論乃至統合された認識論)、後者は「純粋」(いかに純粋に考察できるかを目指してきた。)にテキスト構造からの認識論である。
それは法理論では、現在、ハートとドウォーキン(解釈主義)の対立に納まっているようだ。ドウォーキン実証主義を完全に否定する。

ドウォーキンは、ハートが言うような、法体系において他の法を有効と認定するような上位規則、という考えに反対する。

ロナルド・ドウォーキン - Wikipedia

要は、テキスト中にある制限とは別に、その制限に評価を与える別のテキストがある。という話である。直観的には、値域と定義域を考えると、わかりやすいだろうか。目前のテキストが「値域」を与えても、丸々、、それが許容されるわけではなく、そもそも、、、、「定義域」が措定されているという話である※1
それは構造からの説明だが、構成的には、〈主体〉の(テキスト外への)排除という「リスク負担」である。

その根拠は、有効と認定する過程は皆が納得するようなものでなければならないのに、人々には、正しく法的な結果が正当な異議に対して開かれているような場合でさえ法的権利があるからである。

ロナルド・ドウォーキン-Wikipedia

赤字強調は引用者
これを政治的態度から理解すると述語に着目してしまうが、重要なのは、実はそこではない。述語に着目すること自体が、主体的なテキスト理解の習慣であるからであり、そのことを適示する『納得』がそれである。

ドウォーキンは、実証主義による法と倫理の区分に与せず、伝統的な自然法が仮定するように、法と倫理は存在論的な意味でなく認識論的な意味において関係し合っている、と考える。

ロナルド・ドウォーキン-Wikipedia

実証主義による法と倫理の区分に与せず』とき、もちろん、認識論の立場に立つのだが(あくまで〈主体〉はテキストの外に出されるに過ぎない。)、普遍論争(救済論)の伝統から、実在と存在が混同されやすい※2

法と倫理は存在論的な意味でなく』はあくまで、カント以降の話であって、存在論もまた認識論の一部になったに過ぎない。ここではむしろ、〈原基〉を何とするかで分別すべきではないか思う。だから、「存在論」ではなく、〈判断〉を求める〈人間原基〉である。

さて、「現代国語(文芸国語)」が求めることは〈判断(精神活動)〉であり、「論理国語」が求めることは〈評価〉である。
そういった意味で、戦後の国語教育を二分した増淵と荒木は、すなわち、「新大正新教育」と社会主義リアリズムの双方はともに前者に区分されるだろう。増淵は(『山月記』を解釈するにあたって)合理的個人の追求から、おそらく本来意図されていた表現主義デカダン※)を等閑に付してしまっていた。
※いや、そもそも、日本の「デカダン」受容が、(表現そのものの可能性ではなく)「心理学」に偏り過ぎなのだ。このとき、「自然主義」が美的〈判断〉とどれほど関係するかがトリックとなる。「自然」のイデオロギーはそれくらい自然に認識を形作っている。四季など別に日本人に特別ではない。しかし、「四季の美しさ」「大山の美しさ」では、〈判断〉になる。

 

ヴィルヘルム・マクシミリアン・ヴント 
          1832年天保3年)8月16日 - 1920年(大正09年)8月31日

エトムント・グスタフ・アルブレヒトフッサール

          1859年(安政6年)4月08日 - 1938年(昭和13年)4月27日

 

『歯車』(はぐるま)[1]は、芥川龍之介の小説。『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、『或阿呆の一生』と並ぶ晩年の代表作である。この時期の作品には自身の心象風景を小説にしたものが多いが、この作品もその一つと言える

歯車 (小説) - Wikipedia

赤字強調は引用者

こういうのもここに至って簡単に読み飛ばせない。
『心象風景』とは何であろう。ここに「自然」のイデオロギーが隠されている。

藤村や国木田独歩といったロマン主義の詩人たちは、自然主義の小説家に転ずるにあたってロマン主義からの脱却を目指し、花袋は、『蒲団』に見られる「露骨なる描写」により、自分の作品を貫く論理を明らかにしようとした。

自然主義文学 - Wikipedia

赤字強調は引用者

デカダン」が歪んだ瞬間である。

 

さて、心理学的論理主義の受容の経緯である。

言語の内容である思想に重点を置いて体系を立てようとする、心理主義的な内容主義に基づく論理主義的な立場を貫く理論主義的な本質主義を基とする文法理論であり、

山田文法 - Wikipedia

赤字強調は引用者
何を言っているかさっぱりわからないのは、事後(帰納)的に説明、即ち解説を試みるからで、先ほどと同じように、『思想』がキーワードだろう。それを敷衍する、、、、のが『本質的』である。
心理主義的な内容主義に基づく論理主義的な立場を貫く理論主義的な』はもはや破綻しているが、要は、心理学的論理主義のことだろう。要は『心理』に関する「学」が成立しているということである。だから素直に「心理学」と言えばよいが、それだと広範な対象を取るので、どうにか制限したい企図が透けて見える。
本質主義』は要は『実存(現実存在)主義』と区別するのであろうが、人間そのもの(存在性。「存在」というと認識論上の齟齬が出る。)に着目するか、テキストそのもの(実在性)に着目するかである。すなわち、分析哲学に立たないとの宣言である。

その骨子は「文の成立の契機とはどのようなものか」と言うことができ、そこから「意味と職能の上から判断して決定すべきである」という論が生まれる。

山田文法-Wikipedia

赤字強調は引用者

先ほどから言っているが、『契機』は〈人間原基〉を指すので〈判断〉を帰結する。

要するに「意味に基く文法論」として、山田文法は成り立つことになる。そこでは「統覚作用」が重要な役割を果たす。この統覚作用についてはドイツのヴントの影響が大きい。

山田文法-Wikipedia

赤字強調は引用者
『要する』に至っていないが、『基く』とは導引と帰結を含意するので、導引が『判断』を帰結が『決定』を、『すべき』を『法』が、それぞれ担っているのだろうから、『職能』から(決定)『すべき』を示すことが『文法論』なのだろう。
前文の指示がアクロスして趣旨が取りにくい説明となっているが、「解説的」にありがちである。結論が決まっているので、早まった説明になりがちなのであるのは、そもそも「職能」の定義が「山田文法」のものであるので、循環しているからである。
その説明を必ずしも非難するものではない。
循環していることを発見するのは大事で、そこで止揚(相互前提供与)しているのであるから、それが議論の出発点であることを指示している。すなわち、『職能』決定こそが『山田文法』である(意味論は外在する)。

反対の立場から言うと、そんなことは特に気にしないこととなる。
具体的に、山田の主張を見てみる。

飛ぶ時

では「鳥が」は係助詞を持たないため、連体修飾句の中に影響がとどまるが、

飛ぶ時

では「鳥は」が係助詞「は」を持つため、連体修飾句を越えて文末の陳述に影響する

山田文法-Wikipedia

結論を言えば、「陳述」などはどうでもよい。
〈は〉と〈が〉の区別は、単に措定される内容を持つかどうかだけである。
別の言い方をすれば〈は〉は援用される内容を指示し、〈が〉はその解釈である。「もとより、どうか」が〈は〉であり、「だから、どうだ」が〈が〉であり、ここで示したように(「陳述」という述語そのものに先んじて)「か」と問われることで在り、「だ」と決めることである(ただし、どう言おうが「主張」のレベルに留まるので、ニュアンスを伴うだけである。すなわち、それが〈主体〉をテキストのウチに入れるか、ソトにだすかの、リスク負担である。法実証主義と謂うとき、〈主体〉はテキストのソトに置かれるが、選択の〈判断〉がーそのテキストに見えずに―在る、ということになる。このとき、評価を与える根拠はソトにあることとーいっしょくたにはできないが、行為としてー随伴する。つまり端的には〈私〉を通じてそのテキスト内で評価を決定できると思うか、できないと思うかの違いを生む。論理実証主義の目的はそこにあり、「陳述」で説明されることではない。ソトから与えられる価値をテキストのせいで、、、、、、、、損なわないかどうかが本質なのだ。だからスローガンは「騙されるな」である。反対に心理学的論理主義のスローガンは「信じろ」になるだろう。だって貴方も「人」でしょう、と)。

この『山田論法』の記述者が「解説」的な説明と「」的な説明の区別ができないのは、そもそも何か原因があるのであった。


※1 違った言い方をすると、テキストだけ眺めていても、決まらない。裏を取りなさいということだ。歴史学で言うと、「史料第一主義」はいかにも結構に見えて、資料間も科学的に決定してもらわなければ、困る、という話である(歴史学には歴史学以外の学問に拠る考証もおのずと必要になり、歴史学は必然総合的学問の様相を帯びる。歴史学者が「歴史学バカ」だと困る次第である。法学者だともっと「法学の危機」が潜んでいて、文理主義は原理的に困る、といった内容も含む。ただし、これは内実、敗戦憲法の成立過程に抵触する話で、はなはだ政治的な問題である。石原慎太郎の言うような「美しい日本語」が「論理」を指すなら、意外にも、「正解」だったりするが、「保守層」にはなぜか言葉を直指しない矜持があるので、反対の態度でテキストを眺める左翼とヘンテコな議論に陥りがちである。日本人同士で日本語でしゃべっているのに通訳が必要となる。c.f.『グラン・トリノ』。意外にもアメリカの保守層もそうだったりする)。

※2 オッカムは「唯名論」の立場を取ったが、あくまでキリスト者の立場から救済論を護持し、それはパラドックスを発見したツヴィングリに受け継がれる。オッカムはあくまでカトリックの批判者で、歴史的には、ルターたちのことも準備したのだ(オッカムは「ルター・ツヴィングリ以前」でまだ「生煮え」なので、様々に派生した)。日本で言ったら、伊藤仁斎荻生徂徠のような関係ではないかと思う。オッカムはリベラルから都合よく利用されすぎの感がある。

日本の古代には「4色」あったと言われるが、おそらくそうではなく、つまり、(2対の)「対立色」で理解するのではなく、色環を(動的に)理解すべきなんだよな。

色の抽出(経験;行為)と結びついた本当は豊穣な色体験※3から(単なる対立を超えた)十分な抽象的(群構造)理解があって、ただ言葉が足りていなかっただけなんだ。

こういうところにも「文献学」の陥穽があると思う。
文献だけ見て帰納的に考えても、ほとんど何もわからないんじゃないかな(文字は動き出さない。数学は不思議な学問で、デカルト以来「動き」は「より」という駆動を意味する修飾を以て入っているんだな。だから、古代の色環を理解するのにいちいち数学を呼ぶ出すことはなく、「より」の双方向性を理解すればよいと思う。その sense of wonder センスオブワンダーのことだ)。

※3「体験」と「経験」は異なる。「体験」は「経験」を対象として自己を通じて意味づける精神的な操作のことだろう。