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つまり、批評にジェンダーの視点を持ち込むのは、自由なんだろうけれど、それが作者の、或いは作品の胚胎するジェンダーであるかどうかは、実は、わからないおそれがあるというね。

 

あだち充さんの、「物語らない」そらのコマは、ただ、、あだち充さんの、或いは、ただ、、あだち充作品の演出としてあるのではなく、あだち充の演出だけれど、それは「梶原一騎の世界を演出」するためのコマなんだね。

あだち充の解釈では、これが「梶原一騎の世界をもっともよく表象する」んだよ。

そんなことわからないよね。
もちろん、ジェンダー批評というものが、現にアウトプットされてあることの実存性(構造依存性)に基づくならば、そんなことを気にしなくてもよいかもしれない。
でもそれは批評者のジェンダーであるかもしれない。

実は解釈上の暗黙の了解があって、70年代以前に生まれたヒトと、70年代以降に生まれたヒト、あるいは、「昭和」をまったく知らない平成生まれ以降は、本当に同じ解釈が許されているかということがある。

内田樹が何を解釈しても「父」からになるのか、まったく共感できないのだけれど、彼らは確信に満ちている。

確信を得る契機が何かしらある、ということ。
横線を入れてあげると、「『能力』観に潜むジェンダー」も、より説得力をましたのではないかと思う。

別に拘っていませんが。

心理分析と並んで叙述を支えるのは、エリート社会をめぐる知識社会学的な説明だ。オックスフォード大学や哲学者コミュニティーは、自分の学問分野を支配したいとの欲望が渦巻く男社会だった。ハートはこの社会のインサイダーとなるが、最後までアウトサイダー意識が消えなかった。自分は「完全には男性的ではない」。「女性的側面」の抑圧こそが自らのパニックの一因だろう。ジェンダー法学者でもある著者レイシーは、ハートのこうした自己分析を見逃さなかった。     

     ◇

Nicola Lacey 英ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス教授(刑法・法理論・ジェンダー法学)。

 

「法哲学者H.L.A.ハートの生涯(上・下)」書評 厳密な分析の根底に不安と抑圧|好書好日