芥川龍之介『歯車』理解の準備①

 

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昨日、購入した👆は読み込んだ方がいいような気がするが、何でか知らないが、やたらもたついた文章で読みづらい。

そこで、👆を読んでみたいと思った。
上が理論で、下が実践乃至応用のような位置づけだ。

すなわち、いくつか提題されている。
井上達夫の弟子の2人が、かつてのタルタリアとカルダーノの数学試合のように、互いに問題をふっかけて解けるかどうかを競っている(下表)。

経歴がなかなか興味深い

【先手】
大屋 雄裕 1974年生

1993.3東邦高校卒業
1997.3東京大学法学部旧第2類(公法コース)卒業
1997.4東京大学大学院法学政治学研究科助手(法哲学・指導教員 井上達夫

【後手】

安藤 馨  1983年生

2003.3麻布高校卒業
2004.3東京大学法学部旧第1類(私法コース)卒業
2006.3東京大学大学院法学政治学研究科総合法政専攻修士課程修了(法哲学・指導教員 井上達夫)。修士論文功利主義リベラリズムとその擁護のための予備的考察」
2006.4東京大学大学院法学政治学研究科助手(法哲学・指導教員 井上達夫

法学部のご紹介|法学部|入学案内|東京大学法学部・大学院法学政治学研究科
東大法学部 - 進振り底点推移 - 東大進振り情報サイト UTaisaku-Web
マイノリティから見た東大法学部 - 東大特進

東邦高校と言えば、山下亀三郎で、同じ宇和島出身の穂積に学び、愛媛出身の秋山真之との親交があった。
麻布高校と言えば、江原素六というか、ジョージ・コクランでカナダメソジスト教会だ。
これがなぜ、興味深いかというと、提題についての考えの参考になるからである。

大屋①「人類より圧倒的に知的に優れた宇宙人に『人類の存続のための個体数制限』を命じられたとしたら」
(回答案)社会の構成単位と主体性
大屋②「なぜ納税等の場合と違い、参政権は頭数で『平等』が算出されるのか」
(回答案)大屋①に同じ。
大屋③「同性婚を異性婚と平等に扱うことを要求しながら、なぜ多人数婚を認めないのか」
(回答案)大屋①から派生し、最小社会構成の要請。N夫M妻婚≠社会(全体)より、否定論法を合理化
安藤①「団体の創出」における方法論的個人主義の立場を「なぜ個体だけを自律的として扱うのか」
(回答案)文学 対 政治学
安藤②「なぜ不能犯は処罰しないのに未遂犯は処罰するのか」
(回答案)民法 対 刑法。
安藤③「違憲合法論」
(回答案)文理 対 論理

実は、どちらも、近代性(の諸様相)とは何か、を答えている。

👇は司法試験に出題された論述問題のうち、政治学に関するものを集めて答えたものである。

政治学演習

政治学演習

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前回は、解釈学を通じて、実証主義主義との対比で(解釈主義が)
心理学的論理は、存在論を通じて実証主義に近づくのであり、芥川の『歯車』はそのように理解できることを示そうとした。要は、〈が〉は解釈的であり、〈は〉は実証的と謂うことだ。
今までは、

  1. 様相的と構造的(様相を与える語彙と構造を与える語彙)
  2. 〈主語〉と〈主体〉
  3. 〈主体〉をテキストの外に出すか、内に入れるかのリスク負担

と謂ってきた。
「論理国語」がなんでも対象とできるのは、これを説明できるからで、数学も説明できるというとき、3に関して、ε-δ論法も(まさにそれは「論法」であるから)「論理国語」で十分説明できるはずである。そのときそれは「解説」ではなく「論理」でなければならない。数学で説明したものをわかりやくすく解説し直すのではなく、数学で説明できることを国語でも説明できる可能性を謂っているのであり、ここに「論理国語」の意義がある。
準備として、循環構造を以て「代数的に解けない」ことを通じて虚数理解を得なければならない。このとき、解析が要請されるのであり、解釈学は解析学と親和的である。
これを理解せずに「セノンの第3問題(アキレスと亀パラドックス)」の「数学的理解」を解説した野矢は数学的センスが不足していた(少なくとも、  よりなかったし、当然に高瀬正仁の比ではなかった。これは、デカルトの接線問題からライプニッツ微積分の発見が、関数の発見から虚数の対数問題に到達して、ガウスの平方剰余の相互規則からその弟子リーマンの複素平面までの数学史上の遠大なテーマを背景に持っていたのだ。
アキレスと亀存在論的表象であり、すなわち代数の比喩であるから、接線から微分の解説を介してパラドックスを理解するのはよくある「手」だが、それでは数学的には十分ではなかった。そのような純粋に古典的な理解では、(アキレスと亀パラドックスを説明する際の決まり文句だが)「数学的に『わかる』」とは謂えない。
だから、大方の「哲学者」はゼノンの第2問題と第3問題の区別がつかない。
実は、この「区別がつかない」ことが、分岐問題への示唆として本質的に重要なのだ。
認識の発展のひとつの典型であり、人文学上では、「小さな大人問題」としてあった。大人と子どもの「区別がつかない」ことを、分岐問題として捉えたときに初めて「わかる」のであり、史上それを初めて発見したのがギリガンであるから、ギリガンはマルクスなどより随分高尚だと言ってよい。マルクスはそのことに十分気づかなかった「解説屋」であり、原理的に「社会進化論者」である(マルクスが普遍論争に気づいたのは、すなわち、実在論を裏から導入したまでは、チャンスがあったが、黙示録で終わってしまった。なに恥ずべきではない、当時の標準的なエリートであり、21世紀の「哲学者」はいまだに19世紀の「数学者」をーガウスもリーマンもー理解できていない。特にガウスがいかにとんでもない天才であったか※。なにしろ、業績だけ見ても、高瀬氏のように通暁していないと、数学史に正しく配置することすらできない)。

ラマヌジャンの凄さは、わけのわからんことをたくさん書いた凄さであって、これから解明されることを待つことであり、オイラーの凄さは、おそらく理解できることを書いているのだろうけれど、尋常じゃない量で理解が追いつかない凄さであって、ガウスの凄さは、そうじゃないのに凄いことである。それは誰よりも数学の本質に近づいた凄さで在り、あれは誰の方がこれは誰の方がとよく言われるにも関わらず、現代数学ガウスが関与しなかった分野があるのだろうかと思う凄さであるー知らないだけだが。

のすなわち、代数的理解が解析的理解へ発展したとき、)といってよく、これは直ちに、根源的規約主義への注意となる(根源的規約主義の立場自体を脅かすものかはわからない)。