この主題についての諸々の問いの意味は次のことにある。すなわち、この石 の内にある何が、「近接的な基礎として」のそれによって、それのいかなる ものもそれ自身であるところの多くのものへと分割されることが、それに相 反するところのものであるのか、ということである。その分割とは、普遍的 全体に固有な、それに下属する諸部分への分割のようなものである(Ord.II, d. 3, p. 1, q. 2, n. 48)1。
ドゥンス・スコトゥスにおける個別者認識の可能性
本間裕之,東京大学哲学研究室『論集』36号(2017年度) pp.95−108.pdf
👆北一輝が、同時代の学者たちと同時に、ドゥンス・スコトゥスを(仮想的な)論敵としていることがわかる。
認識が実在に関わる」 ということが可知的形象を認めることによって得られるならば、単純把捉に後続 する諸々の論理学的な操作もすべて、実在的な概念を基礎として展開されるであ ろう。
いかにして多くの概念が獲得されるか ―ドゥンス・スコトゥスの認識論―
本間 裕之,東京大学哲学研究室『論集』37号(2018年度) pp.147−160.pdf
👆は、トマス・アクィナスと比べられるべき論考である。
また、北にしろ、上杉にしろ、実在というとき、こういった議論上の「実在」を論じていることがわかる。
中世哲学への招待―「ヨーロッパ的思考」のはじまりを知るために (平凡社新書)
- 作者:八木 雄二
- 発売日: 2000/12/01
- メディア: 新書
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