ルソーは流出論(一元論)であってニュートンと同じカテゴリー

当時隆盛の法実証主義にはかなり神経を使っていたことが分る。当時を考えると,法実証主義形而上学を嫌悪し,自然法の理念に執拗に反対し,自然科学の増大する影響と絶対主義のもとに,国家意思以外の他の法源を認めることを,方法論的に拒絶する時代であった。(7)当時の学者が時代の潮流に遅れまいとする余り,自然法の一切の痕跡を自分の学説より消し去ろうと懸命であった

(7) イエリネックの次の言葉は,余りに有名である。『国際法の遵守が国家の存続と皆致するに至るときには,法規はそれに対して退却する。何となれば 国家は各個の法規の何れより高く位することは,すでに国内的法律関係の考察において学びし如くであるから。国際法は国家のために存するのであり,国家が国際法のために存するのではない』Jellinek,Allegemeine Staatslehre,3.Aufl.,1921,S.377,田中『世界法の理論』第三巻,673~674頁に引用。

 

世界法の概念について
― 田中 ,恒藤両博士の概念をめぐって―
Ernst Zitelmann, "Die MOglichkeit eines Weltrechts"(1888) 100年目を記念して 斎藤恵彦

ここで批判されている「国家」とは実はルソーの批判した『最大公約数』であって、これには2つの意味を含意するのだが、すなわち『最大』と『公約数』なのだが、経験的・手続き的であり、非本質論であり、それは二元論だから非一元論であり、<鏡>的(相互論)であって<芽>的(流出論)ではない。語る内容については主語的ではなく述語的である反面、語る行為については主語的であって述語的ではなく、だから便宜的である。そのとき、どのような法も法である。
この便宜性は特にイエリネックの弟子であるケルゼンの注意するところで

翻ってケルゼンは、国家の神聖化につながる理論は主権国家間に自然に生じた国際法に対する主権の優位性を正当化してしまう、と書いている。ケルゼンにとって、主権とは理論的な概念ではなかった。彼はこう記している。「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」と。

ハンス・ケルゼン - Wikipedia

要は、「主権」と「国際法」は、どちらが卵でどちらが鶏かの議論に似つかわしくなく、論理上「同時」に成立することであって、しかしそれは所詮「語り方」のハナシであるから、そう語るような経緯は「ある」といっているのである。つまり、鶏の先祖や卵の進化的な発生事実を発見できても、それと「卵と鶏」の目的は別であるからして、ごっちゃにしないように注意を喚起している。「主権」は「国際法」における構成単位であり、それを毀損して「国際法」を謂うことはできない構成になっていて、(その枠内では)優劣乃至前後を付けられる話ではなく、相互に支えられているということであった。でも、それが発生した経緯は間違いなく、「在る」。そしてそれは便宜である。それを(便宜の持つ借用性をして)「根本」から考えるのがケルゼン流であって、その議論の元ネタは流出論であろう。ゆえに、トマス主義者である田中は安心して自然法論をぶつことができるのであった。田中は「証券」に付随する規範(商法)からこれを考えたのであった。


そして明治期の多くの法学者たちが理解できず(穂積に『それは自然法ではない』と言われる始末。)混乱したのは、実は、神学論争を適切に理解しなかったからだった。
反対に神学論争が理解できる者たちは最初は政治的に完敗したが、それはどうにか憲法民法の、本当に最初期の法学論争のうちで終わらせることができたいたようで、その後は、田中の商法や、  の国際法で実は巻き返していたらしい。美濃部の「庶民的」な便法は社会の学識の深まりとともに棄却されざるを得なかったのではないか。

キリスト教の普及にともなう土着化と同じである(普及期に「本当は違う」と言っても理解されず、意味もないーいや、「意味(語彙)」がないから理解されない。土着語彙の方が受けは間違いなく良い※ーただし、ここで「土着語彙」とはもとからある言葉だけをさすわけではない。外来語、造語であっても、土着的なカテゴリーに属すかどうかである。これは第一語彙群の選択としての地方語/標準語/中央語の理解につながる)。
※現代におけるわかりやすい例では、「三権分立」「天賦人権説」「天皇機関説」などがある。「本当はそうじゃない」と言っても「学校で習った」ので「正しい」らしい(必ずしも間違っていないから厄介である。無理を承知であえて言うなら、焦点が異なる)。第一語彙群の占有はこのような(「キリスト教」の)普及効果を持つ。わかりやすいからウケがよい。そして自明なほどにわかりやすいから固着的である。しかしそれはわかりやす過ぎて著しく説明力を欠き(リーチが短い。)、社会的便宜から逃れられず、権力的である。 

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👇はよくまとまっていて参考になる。提示された思想の流れ図を見たい。
http://www.math.keio.ac.jp/~ishikawa/KoaraWest/KoaraWest06_02.pdf
量子力学 (慶應義塾大学 理工学部 数理科学科)

 👆ここで提示されているポンチ絵は素晴らしい。
法学部でも大学の教養でやったほうがよいんじゃないかと思う。法の理解にギリシャ哲学、キリスト教哲学への理解は必須となる。
法学は行為の意味体系ゆえにこれだけでは若干説明が足りないから、足りない部分を田中智志の説明する<鏡>と<芽>の比喩で補えればよい(<鏡>が二元論、<芽>が一元論に相当する。流出論は後者)※。
👇<鏡>と<芽>の比喩が紹介されている。 

暴力の対極に位置するかに見える「無垢」という概念に注目するなら、そのヨーロッパ思想的な原義は、通俗的善悪の彼岸としての「人の自然」すなわち「心の鏡」につらなるだろう。これに関連することは、人が<よりよく生きる>ことを語るための原喩が、<芽の隠喩>だけでなく、<鏡の隠喩>であることである。

〈鏡の隠喩〉のなかで —脱構築できない無垢
田 中 智 志 

法学徒は科学者を目指していないので量子論を理解できなくても結構だが、ルソーとニュートンを結びつけられた方が良い。どちらも、近代国家の建設を説明する際、無視することができない。ちなみに、ニュートンデカルトと対立したのはエーテル説(媒介必要説)であって、機械論ではない。ニュートンはもちろん機械論者である(唯物論者とは言えない。グノーシス主義者である。ここらへんも奇妙な勘違いが当然のように、、、、、、ある)。 

※もちろん、アウグスティヌストマス・アクィナスヘーゲルも入れた方が便利だが、なんでも入れるとせっかくの手軽さが失われてしまうかもしれない。

全体的にみれば、トマスは、アウグスティヌス以来のネオプラトニズムの影響を残しつつも、哲学における軸足をプラトンからアリストテレスへと移した上で、神学と哲学の関係を整理し、神中心主義と人間中心主義という相対立する概念のほとんど不可能ともいえる統合を図ったといえる。

トマス・アクィナス - Wikipedia

なお、赤字強調は引用者。
👇ここまでは政治思想史。 

 👆さらに進むと、法思想史。目的論的から目的的へ 

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とくにルソーは最重要人物のひとりであるにも関わらず、彼の業績の説明で腑に落ちるものがない。しかし、おそろしく難解なことをルソーほどの大天才だから言えたのでもなんでもなく、言葉を変えてみただけであって、要は、スコラ哲学なのであった。そのような語り口調を見ると、東浩紀とルソーで対して違いはない(そもそも東はルソーのシンパだったはずだ)。第一線の学者であることは言える。 

 👇田中先生には、他にもこんな著作がある。