オールド・リベラリスト

 

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 👇美濃部達吉の論争史(未完)f:id:MarkovProperty:20210726174917j:plain

 (比較参照)

講座担任者から見た憲法学説の諸相 -日本憲法学史序説-

👆面白いのだが、「講義」に焦点を合わせすぎて、よくわからなくなる。ロエスレルも出てこなければ、イェリネックは当然出てこない。ただ一木が金子の講義を受けていたなど細かい情報も知れるし、法律学校と帝大の関係もそれなりに説明してある(ただ、法科大学には「法律学科」しかなかったのではない。(「政治学科」ということではなく、英米法履修、独逸法履修、仏蘭西法履修に分かれて、筧は、法科大学法律学英米法履修であった。👇

官報. 1897年07月13日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
官報. 1903年07月14日 - 国立国会図書館デジタルコレクション
一 帝国大学の発足と拡充:文部科学省

とまぁ、結構、「論文」というよりもエピソードを集めたムック本のような体裁で楽しめるものとなっている)。こういう思わがけず笑えるものに出会えるのも奇遇として寿いでよいだろう。大事なことである。ただこんなのばかりだと学問に意味がなくなり困るが。

それに対してムック本は、1つの大きなテーマを深堀りした内容がほとんどです。“この情報が知りたい”や“コレが好き!”という人をターゲットに、その人が絶対に知りたいと思う密な情報が収録されています。

【ムック本とは】雑誌・写真集との違いは何?特徴や人気ムックも

 

 

さて、例えば、無国籍者の人権を云々するときに、「生まれたときから人権を享有」と謂うか、「生まれる前から人権を享有」と謂うかは全然違って、もちろん通説は、「生まれたときから」で、それではなぜ「生まれる前から」と敢えて言うかというと、おかしなことを言いたいわけじゃなく「グランドセオリー」の法理解の伝統に沿っているからなのだが、逆になぜそれが謂われないかというと、説明上は「自明」とされ、個別の問題としては例えば中絶で在ったり、或いは反対に、死後の名誉のハナシで在ったりするのではないかと思う(一応、それでも、死後の名誉は法的に認められる)。
ただ、憲法上の「人権」が直ちに具体的規範性を持つわけではない通常の理解からすると(直接の法源とされることは一部である。)、抽象的理解に根差しているならば、至高の価値の伝統的議論手続きである「グランドセオリー」から考えて、すなわち、有限/無限の対比に落とし込んで考えたときに、常に「よりちいさい」価値となる技術制約を持つ有限では基礎性を担保できないのであるから、(具体的に無制限ということではなしに)根源的に無際限な価値を持つこととして、或るパースペクティブという技術的な表現上は、「他の価値に先んじてある」と言って差し支えないのであった。具体的には、国籍法との兼ね合いで会って、国籍法が人権を与えるのではなく、人権が国籍法を「彩る」のであった(c.f.田中の「色彩論」)。

 

自由主義イエリネック』という言葉の付与が評価されるべきなのは、いままであった『新しい教科書』運動より意義深いことであって、そこでは単なるイベント(「正義漢」もしくは「悪漢」)であったがゆえに、想像上の実在に過ぎなかった、美濃部が、法体系全体の中で一介の法学者として理解される、認識上の革新が認められるからである。ようやく戯画を脱して、議論される準備が(著者も認めるように)不十分ながら整えられつつあることは、著者の業績として称賛してよいと思う。

当時の法学を理解するいは、哲学でよく使われる『〇〇史』ばかりではなく、文学でよく使われる『〇〇伝』の豊かさがあってよいと思う。その意味で、『  と上杉』新しく法学理解の途を拓いたと思う(本当は上杉から始まる研究なので上杉が先に来るのがフェアだと思うが、それについては前書きで云々している。それぐらい、いまだに「上杉」を中立に、或いは、評価して取り上げるのは、いまだに難しいのだ※)。
※だから、むしろ「中央突破」というか、「天皇機関説」を取り上げてよいと思う。しかし、それは「美濃部の業績」として、美濃部を「美濃部伝」に落とし込んで、彼の業績全体から「法学史」をのぞき込むような恰好が相応しいと思う。
「上杉伝(美濃部伝『法学史』)」とうことである。むろん、これは美濃部の評価が上杉の評価に従属して語られることではなく、法学史全体を内包してときどきの表現であった美濃部の業績を通じて、同様に上杉の業績を見ることである。

 

 


そうすると、あまり知られていない美濃部の業績の意味から。
もちろん美濃部は法学者として評価されるべきである。彼が精魂を尽くしたイエリネックの紹介は意義深いものであった。しかし、それだけで彼を「至高の存在」に据えることはかなり無理があった。そこにあったのはただの「演芸」であり、そこでは学問自体がただの「役割」に転じて、「学問」としての価値を持たなかった。
しかし、いままで私たちは、それをあまりに「当然」のこととして受け入れてきたのだ。何も戦前のことばかりではない。戦後の共犯者も居る。

戦後の国際法一元論の立場から戦前の二元論を批判的に眺めるとき※、美濃部の論争が参照されて、(対外国法から)二元論への移行期に「厳密さを欠く」ことが擁護されつつ、(イェリネックの「国家の自己拘束」は)『むしろのちの一元論への接近を期待できるものといえるであろう。美濃部博士の今回の論争をみると,このイエリネッ クの場合よりも,さらに一元論的な性向をつよめていると思われる』(P52美濃部・立両博士論争の素描-国内法と国際法との関係 論について/中原精一 /明治大学社会科学研究所紀要, 7: 37-54/1969)と期待されるのは(ただし、そのあと、明治憲法下のことであり、限界があったとされる。)、

※実際上は、現在(厳密な)一元論が主流とは言えない。二元論と一元論の折衷くらいだろうと思う。そういった意味で、

戦後の「主権論争」とは何であったか。
あれによって、結局は、芦部が「芦部」に祭り上げられ、彼の事業はとん挫した。戦前に由来する、大陸学派の巻き返しである。確かに「ボン基本法」もドイツ人によって換骨奪胎された。しかし日本の(アメリカ革命に対する)「反革命」は隠れた「国家主義」のもと行われた「密教」的色彩を持っていた。顕教/密教とは、法体系のことではなく、戦前の軍部のことであり、戦後の官僚組織のことであった。丸山はやはり政治学者であって、法学者ではなかった。法体系上、戦前の「主権論争」は、「グランドセオリー」の議論に沿うかどうかだけであって、顕教/密教という或る具象的様態のことではなく、抽象的な議論であって、  (実在論も抽象的な議論も法はそれを除外することが技術的に不可能である。現に日付計算という日常的なことですら、素朴な事実のみに依って抽象的観念をもとに考えないでいることが、できないのである)。

 江川達也が『日露戦争物語』を書けないワケーもちろん描いたのであるが、それは『坂の上の雲』の影響が大きかったのではないかと言われている。
「主権」の議論に「グランドセオリー」が必要だったように、「グランドストラテジー」の世界像なくそれを描くことはかなり無理があった。
司馬史観」はむしろ、(吉川英治のいわゆる「講談調」を廃した、近代的な)「司馬講談」であって、それはGHQが普及した「戦後価値」(悪名高いWGPのことではない。教育刷新会議以降、憲法の謳う価値に沿って進められた、「主体性」の国語教育のことである)と平仄が合う物語方法であったが、『山月記』の解釈が不自然であるように、俗情を催すものであっても、分析的ではないし、一方で芸術的でもない。華やかでにぎにぎしいショーである(それが決して悪いワケではない。ひとつの豊かさの表れである。ただ、メインカルチャーではない)。

ハイカルチャーではないのが同じと言って、台本の書割をそのまま立ち上げてどうするのだ。勢い込んでやるのであれば、そもそも「司馬講談」が、主役の立ち回りへの声援であることを喝破して、また反対に脇役或いは悪漢にスポットライトをあてて通奏低音を為すのでもなく、『自由主義イエリネック』のような言葉を与えることができなかったのであろうか?
それはできないだろう。それには相応の理解が必要だからであった。
それはナポレオン戦争の英雄:初代ウェリントン侯爵アーサー・ウェルズリーから始まるのがよかっただろう。彼が主役なのではない。しかし、彼は間違いなく、彩を添えている。

福沢自身は、「英吉利(イギリス)法律学校(中央大学の前身)開校式の演説」 (明治18年9月22日『時事新報』)で、「諭吉は特に英吉利の法律を賛成せざ るを得ず。如何となれば開国以来、我国に行はるる外国の語は英語にして、今 後もますます其流行の盛なるべき論を俟たず。」と述べている。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2016/01/21/7997098