文理解釈

近代国家の成立と主権概念の成立の関係を原理的に解説しつつ、経緯から説明し、「君主主権」「人民主権」「国家主権(ドイツ)」「議会主権」「天皇主権」「国家主権(日本)」「国民主権(日本)」のそれぞれの違いをジレンマ(原理的問い)から対立関係を紹介してもよいけれど(例えば、天皇主権と国家主権への問いは「自己拘束」であって、「天皇の自己拘束」を認める立場が国家主権説で、認めないのが天皇主権説だけれども、それが反射的な関係ならば、国家主権は「国家の自己拘束」を満たすはずと謂える※)、調べるの面倒くさい。

※そうすると、「天皇主権説対天皇機関説」は二重に誤魔化していることになる。本質は「主権論争」であり、主題は本来(キリスト教の議論を引き継いで、無限/有限に関するグランドセオリーを背負った)「自己拘束」だったと謂うこと。「天皇主権説対天皇機関説」はあくまで「経緯的な説明」であって「原理的な解説」でなないということ。この字面を見ても、なにもわからない。不毛だ。

 

markovproperty.hatenadiary.com

穂積の言葉が(徐々に、すっかり)失われていった、というのは、私のアイデアではない。そういう言葉を吐いているヒトが居たってのを何かしらで読んだってこと(『吉野作造上杉慎吉日露戦争から大正デモクラシーへー』だったかな。そういうのを調べるのがもはや面倒くさい)。

 👇法学関係でもこういうのあっていいんだよなぁ。

(この3冊の比較ではなく)上杉に関しては『吉野作造上杉慎吉日露戦争から大正デモクラシーへー』が珍しく信頼できるかな(自分が知らんだけで)。あとのは、噂話の域をでないんじゃないかな(それでも「無意味」と言えないところが悲しい。それくらい一般には情報がない。まずその噂話の訂正から入らざるを得ない)。美濃部にしてもちゃんと調べた方がイイよなぁ。

 

三   新憲法と旧憲法との比較  

明治天皇の欽定に係る旧憲法は、明治二十二年( 一八 八 九 年 二月十一 日に発布さ れ 翌二十三年十一月第一回帝国議会開会の時から施行されたものであるが、その施行後五十年余りの長い間に一か所の改正もなく、その議すらも起きたことがなかった。 もちろん、旧憲法にも改正の手続についての規定は備わっていたが、国民は一般にこれを不磨の大典として尊重し、その改正手続の規定が実際に適用され時が来るとは夢にも思わ なかったのである。

美濃部達吉 (2016-11-24). 新憲法の基本原理: 現代語訳 (Kindle の位置No.262-269). 

ヘボン氏寄附講座に就て 山川東大総長の演説※

昨年の夏米国ニューヨーク市チェス、ナシォナル銀行の頭取であるヘボン君 ―是は長らく本邦に居住されて所謂ヘボン辞書を著されて有名なヘボン君の親類の人であります―が澁澤男爵の処へ書面をよこされまして、 両国の内には日米戦争は到底免れないと云ふ人もあるが、自分の見る所では、日米両国は人道と文明とを擁護するものであるから、敵どころでなく日米国民は相互の身方である、成程移民等の問題で多少の行違があったに相違ないが、余り遠からぬ将来に於て、米国が日本人を欧州各国の人民と同等に 取扱ふことに於て、 実際解決せらるゝことであらうと思はれる、然し種々の事情が終末の解決を遅からしむる恐もあるから、吾人はも少し真面目に国際間の友誼を厚からしむる方に努力せねばならん、右の目的で東京大学へ日本政府の五分利公債額面十万円を寄附するから、国際法並に国際の友誼の講座を置かるゝことを希望するにより、可然取計って呉れと云って来たのであります。

 

※大正7年2月9日 

美濃部はアメリ憲法の講義も担当していたことがある。大正7年にアメリカの篤志家の寄付を受けてのものだが、そのとき、新渡戸がアメリカ史、吉野がアメリカ外交を担当した。

(1946年)7月22日、連合国総司令部が米系銀行の在日支店の再開を許可。7月31日、外貨債処理法による政府債務承継まで保管されていた利払い資金がGHQから日銀へ移管される。同日、ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、香港上海銀行、チャータード銀行、オランダ系銀行2行の以上5行がもつ国内支店について、戦時中の敵産管理法により横浜正金銀行がもっていた管理権を日銀が継承した

日本銀行 - Wikipedia

そういった経緯もあって、戦後、美濃部が新憲法の第一人者になってもおかしくはなかった。しかし、そうはならなかったどころか、ほとんど相手にされなかったらしい。

まぁ、東京裁判もあったし、戦後に「戦前は君主主権であった」と堂々と憲法解説をするのは、じゃあ、何を論争していたのか、と思わないではない。
彼は「厳密に考える」ということ自体の意味をあまり認めていなかったのではないか。 

日本国憲法第9条には芦部条項と呼ばれる文言がある。これなどはそれと同様に(こちらはあくまで解釈論であるが)「美濃部条項」と呼んで差し支えない代物であった。すなわち、『旧憲法にも改正の手続についての規定は備わっていた、国民は』などは理論解説の言葉ではなく、経緯の説明である。もちろん、それまで、憲法改正の経緯に関して言葉を費やしていたのだが、ここでは論調を変えるのが適当である。美濃部はそもそも変える必要を認めていなかったのではないか。それでいて、君主主権であり、欽定憲法であったと繰り返し説明するのであった。まるで日常会話のような融通無碍であり、なるほど、これが議会を魅了した美濃部説法かと妙に納得した。美濃部の理解は現代の日本国憲法の理解にも通じる、統一感のなさが否めない。それを「文理解釈」と呼ぶのをやめたらどうか。美濃部はケルゼンを批判して、反対に横田から論難されたのではなかったか? 

なお晩年のハイデルベルク時代にハンス・ケルゼンや上杉慎吉が彼のもとで学んでいる。

ゲオルグ・イェリネック - Wikipedia

翻ってケルゼンは、国家の神聖化につながる理論は主権国家間に自然に生じた国際法に対する主権の優位性を正当化してしまう、と書いている。ケルゼンにとって、主権とは理論的な概念ではなかった。彼はこう記している。「意図して個人をその決定に服せしめる以外の何物でもない主権概念から、人間は離脱しうる」と。

ハンス・ケルゼン - Wikipedia

そのためケルゼンは、あらゆる規範体系には一つの「根本規範」があるということを仮定した。この「根本規範」にしたがって、他のすべての規範が導き出される。これは、あらゆる法体系が持つ「虚構的」ないし「認識論的仮説」であり、「超越論的-論理的前提」であるとされる。

純粋法学 - Wikipedia

美濃部は、上杉ともケルゼンとも反目したのであった。彼のイェリネック理解には何か不可解な点を含んではいなかったか? 

 国際法の横田は憲法の上杉と同じようにはいかなかったか。

ja.wikipedia.org

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また、『自由主義イェリネック』(今本『吉野作造~』)というイギリス流ドイツ学派の美濃部は、イギリス学派福沢や、アメリカ学派の金子(伊藤博文)とはどういう関係にあったのか。 

イギリス法学系

東京大学法学部(1877年4月・官立)
1885年9月:東京法学校を併合。
1886年3月:帝国大学法科大学に改編。

法律学校 (旧制) - Wikipedia

英吉利法律学校(イギリスほうりつがっこう)は、1885年(明治18年)、増島六一郎・菊池武夫穂積陳重らによって東京府神田区神田錦町に設立された私立法律学校である。

 (略)

明治時代、日本の近代法制定(あるいは法学)において当初主流であったのはフランス法学であり、法律家育成にあたった官立2校のうち、司法省法学校ではボアソナードらフランス人法律家が講師を務め、官学におけるフランス法の研究・教育拠点であった。これに対して英米法学の影響が強かった旧東京大学法学部の卒業生・関係者18名により、1885年7月に設立の認可を受け、同年9月10日に東京府神田区神田錦町の明治義塾跡地に設立されたのが英吉利法律学校である。初代校長には設立発起人・創立委員の一人であった増島六一郎が就任し、司法省も年額5,000円の補助金を支給していた。 英吉利法律学校は、先行の英米法系法律学校(旧東京大学法学部のほか専修学校[1]・東京専門学校[2])が英米法学のごく一部分を講義するに止まっていたのに対し、英米法全般の教授と、その経験主義的自由主義の精神を日本に導入して司法制度を確立することを目指した。

 

英吉利法律学校 - Wikipedia 

近江国彦根藩井伊家弓術師範230石の家柄。1870年(明治3年)に上京し、官立東京開成学校(のちの東京大学)に進学する。東京大学法学部第二期を首席で卒業。その後、1879年ころ、岩崎家の援助によってイギリス・ミドル・テンプル法学院に、穂積陳重や岡村輝彦らとともに留学

増島六一郎 - Wikipedia 

1875(明治8)年、大学南校(のちの東京大学)を卒業し、明治政府の留学制度である「文部省貸費留学生規則」の第一回貸費留学生として、アメリボストン大学法学校へ留学した。同じ留学生としては、後の日露戦争講和談判全権大使小村寿太郎や法学者鳩山和夫もいた。

菊池武夫 (法律家) - Wikipedia 

1890年(明治23年)11月、井上馨の三井家政改革において相談役となっていた渋沢栄一・益田孝・三野村利助から、家憲草案の作成を委嘱された

(略)

穂積は、イギリス留学時代に法理学及びイギリス法を研究するかたわら、法学の枠を超え、当時イギリスで激しい議論の的になっていたチャールズ・ダーウィンの進化論、ハーバート・スペンサー社会進化論などについて、幅広い研究をした。 その後、ドイツへ転学し、ハインリヒ・デルンブルヒの講義を聴講してドイツ法を研究し、サヴィニーに触発され、日本民法へのパンデクテン法体系の導入のきっかけを作った。

穂積陳重 - Wikipedia

鶴見の回想。
「星は財閥ではなかったでしょう。三井や三菱のような政商ではない。第一次世界大戦後に急成長した鈴木商店とよく似ていますが、政府と太いつながりをもたないと企業は大きくなれなかった時代です。だから悪いときは一気にだめになる。財閥が結託してつぶしにかかるのです」 

鶴見とは、星の頼った後藤新平の孫であり、あの鶴見俊輔である。鶴見の業績をよく知らないが、日本の大学には通わずにハーバード大学に留学して飛び級したはいいが、FBIに捕まって教授会による特例で卒業するという異例の経歴、というか、とにかく異例づくめの経歴の持ち主である。一方で学問上の何の業績があったのだろう? 

米国留学の前後で日本の論壇全体の傾向が変わったとの自覚から着想して1954年から「転向研究会」を作り、『共同研究 転向』をまとめるなど思想史研究を行い

鶴見俊輔 - Wikipedia

 現にこの記事の冒頭に掲げに星氏の事件もたまたま同氏が総督府の特定商人としてアヘンを取扱っていたから起ったものである。星氏今回の事件は既に司直の手によって糺されているのだから、局外からカレコレ言うべき筋合のものではないが総督府特定の商人として、アヘンを取扱っている者が、他人の知らないボロ儲をしていることだけは事実であるらしい。

www.lib.kobe-u.ac.jp

アヘンとは「物騒」であり、阿片戦争を思い出すが、星の場合モルヒネの原料のことである。当時イギリスが阿片市場を手中に収めていた。
モルヒネとアヘンの化学的な関係をよく知らないが👇こういうことらしい。 

ヘロインは、けしを原料とした薬物(けしからあへんを採取し、あへんから抽出したモルヒネを精製して作られます)、「麻薬及び向精神薬取締法」で麻薬として規制されています。

ヘロイン・あへん - 埼玉県警察

大阪毎日新聞はと言うと、吸引するなどして中毒になる、それ自身の麻薬としての「アヘン」のことを言っているらしい。

鶴見は(おそらく後藤との関係もあって)鈴木商店を挙げるが、私は「海の百万石」銭屋 五兵衛を思い出す。それにしてもなぜ、加賀藩は、幕末から明治期にかけてそれほど目立たなかったのか。不思議なくらいである。薩摩藩の抜け荷貿易の取扱高と比べてみたいものである。

死後、五兵衛は海外との密貿易を行って巨利を得たということで、悪徳商人の典型とされ酷評されたが、明治維新後はむしろ、鎖国体制下で海外交易を試みた先駆者として評価が高まった。

銭屋五兵衛 - Wikipedia

 

 

さて、美濃部が戦後相手にされなかったのは、どういう理由だろう。
政治的な理由だっただろうか?その「文理解釈」ゆえだっただろうか?